歩いて守ろう信州の道

山田順子_LINE

はじめに

この連載は2014年2月から2016年4月まで、ブログ『歩いて守ろう信州の道』に掲載した記事です。
ブログ閉鎖後も残して欲しいという要望もあったため、しばらくここにまとめて掲載することにしました。
『歩いて守ろう信州の道』は、消えかかっている歴史的価値のある道を、なんとか後世に残したいという思いから、その趣旨や、実際に行ったことを掲載しておりました。
しかし、常日頃から行っていることがすべてその延長線上にあったため、私の日常の活動をご紹介するブログ『時代考証家 山田順子の東奔西走』と重複することが多くありました。そのためか、後半は掲載が遅れがちになり、読者の皆さんにご迷惑をおかけしました。
そこで、ブログ『時代考証家 山田順子の東奔西走』に合併し、より充実したブログとなるよう努力いたしますので、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。


 

山田順子_LINE

「歩いて守ろう信州の道の会」の立ち上げです

「歩いて守ろう信州の道の会」の立ち上げ

歴史の郷・真田を歩きたいという観光客や歴史愛好家のために、歴史研究家の一人として、上田市に協力して徒歩用の観光地図の作成をしています。
コース設定の中で困るのが、地図には載っている道なのに、草や雑木が生い茂り、どこにあるのか不明になった道の多いことです。さらに悲しいのが、やっと見つけても、通行できないように封鎖しているケースです。先日も東京からの移住者で、土地購入の際、地籍図で道の存在を確認しておきながら、植木を植えて庭に囲い込んでいるケースがありました。抗議すると「誰も通らないのでいいだろう」という反論でした。
現場の道は明治27年に作成されたと地籍図に「赤線」と呼ばれる公道として記入されており、現在は国有地となっています。新しい市道(自動車道路)ができるまでは、神社の参道や集落間を結ぶ重要な道でした。しかも一部には立派な石畳が60メートルも続く、歴史遺産の古道です。
道は地域の歴史を伝えてきた大切な文化財であり、観光資源です。今、地域の古老たちの記憶があるうちに整備して守らないと、単なる無用の道として、消滅してしまうことでしょう。

道の保存方法はまず、道の歴史的価値を知り、実際に歩くことです。
歩いて草を踏みつけ、足跡を残すことです。

ということで、この度
「歩いて守ろう信州の道の会」を立ち上げることにしました。

茂田井宿を描いた画家

このブログのタイトルバックに使わせていただいた絵は、私が特別会員となっているJAG(ジャパンガーデンデザイナーズ協会)の正会員である大谷宗之さんが描かれた長野県佐久市の中山道の茂田井宿の風景です。

昨年(2013年)私がご案内して、隣接する立科町の芦田宿の本陣を見学した折りに、足を延ばして隣の茂田井宿に行かれ、描かれました。私は立科町で講演会をしていたので、ご一緒できず残念でしたが、この絵を一目見て気に入り、お願いして頂戴しました。

大谷宗之さんが描かれた長野県佐久市の中山道の茂田井宿の風景

茂田井宿は中山道の正式な宿場ではなく、望月宿(佐久市)と芦田宿(立科町)の間にあった休憩用の「間の宿」(あいのしゅく)という町です。そのため、本陣や旅籠などの宿泊施設はなく商家だけでした。
この宿場は幸いにも、自動車の幹線道路から外れていることと、江戸時代から続く旧家の造り酒屋2軒が、土塀や土蔵をそのまま保存しておいたために、江戸時代の景観が残されているのです。絵の真ん中を通るのが、中山道です。さすがにアスファルトにはなっていますが、ここに土を撒けばそのまま江戸時代になります。もちろん、過去にも映画のロケに使われたそうです。

今回は「道は人が作り、守る」というテーマにぴったりだったので、タイトル文字が上に重なるという無礼を省みず、掲載させていただきました。すみません。おかげで、とても素敵なタイトルになったと自負しています。

大谷宗之さんの本業は建築デザイナーで、JAGのメンバーとして、「家と庭と街並が一つにつながった」景観づくりを実践されています。そして時間があると全国各地の風景を絵にされているのです。

今年は戦国武将・真田幸隆の生誕501年

「六日の菖蒲」「十日の菊」という慣用句をご存じですか? 現代風にいえば「15日のチョコレート」「26日のクリスマスケーキ」という感じでしょうか。時機に遅れて役に立たないことの例えです。
今日は3月3日雛祭り。明日にはさっさと雛人形を片付けないと、嫁に行き遅れるそうです。ちなみに我が家では端午の節句まで飾っていたので、こんな結果になっています。
さて、本題の真田幸隆の生誕ですが、諸説ありますといいながら、真田氏発祥の地、長野県上田市が発行するガイドブックや上田市教育委員会が編集した著作には永正十年(1513)と書かれています。つまり、上田市の統一見解として、幸隆は西暦1513年生まれとしているのです。
「それがどうした!」と言われれば身も蓋もないのですが、1513年から数えて、昨年の2013年はちょうど500年に当たったのです。
上田市は「真田幸村」だけでは、地元とのつながりが薄いので、「真田三代」幸村、父昌幸、祖父幸隆の三人を担ぎあげて、観光の目玉にしょうと躍起になっています。
つまり、三代の最初の年である1513年は、エポックなのです。それから500年の2013年。しかし、昨年上田市で、この話をする人に会いませんでした。
偉そうに言っていますが、私もすっかり忘れていました。ただ、偶然の結果ですが、私の著書『新説真田三代ミステリー』が1月に出版され、そのおかげで、昨年は市内各所で「真田三代」の講演をしました。そして、幸村ばかりではなく、上田市にゆかりの深い幸隆の業績を見直すべきだと力説して回りました。今、思えば、私は幸隆に導かれて、真田に関わることになったのかもしれません。
ちなみに、1月27日長野大学の前川教授のゼミ生による観光事業に関する研究発表会に出席した折り、クイズ形式で「昨年2013年は上田市の観光ビジネスにとって、ビッグチャンスの年だったのですが、さてどんな年だったでしょう?」と質問したら、居並ぶ市の観光事業の担当者の皆さんは、誰一人答えられる方はいませんでした。日頃、市内の観光ガイドをしている方、観光パンフレットを制作している方、季節ごとの観光イベントを企画している方、真田三代で金儲けをしようとしている方・・・・。
答えを言ったとき、会場から大きなため息が聞こえたのが印象的でした。
という訳で、今回の写真は幸隆も新雪を踏みしめて歩いたゆかりの道です。

幸隆も新雪を踏みしめて歩いたゆかりの道

意外と知らない戦国の道(街道繁栄物語第2回)

豪雪で一ヶ月延期になっていた真田中央公民館主催講座「街道繁栄物語」第2回を3月16日に実施しました。
今回は、実際に街道を歩いてみようということで、上田市に隣接する東御市から上田市芳田、殿城を経て、真田に至る道を一部貸切バスに乗りながら歩きました。そして、今回は助っ人講師として、東御市の商工観光課の山内智晴さんに案内役をお願いしました。山内さんは以前、文化財の担当でもあり、ご本人も好きで勉強されているので、超が付く歴史オタク。おかげで、私も聴講生の皆さんと一緒に勉強させていただきました。
東御市には上田市から延びる古代の東山道と江戸時代の北国街道が千曲川沿いに東西に通り、それに交差するよう南北に中世の城下町を繋ぐ幹線道路が通っています。そこで、今回は真田氏とゆかりが深い海野氏や祢津氏の城下町を巡りながら、戦国時代に武田信玄が信濃攻略に使ったと想定される道を中心に歩きました。

実際に歩いた街道の図

1、海野氏の菩提寺といわれる「興善寺」
2、海野氏、真田氏の氏神「白鳥神社」
3、北国街道の北側を通る「東山道」の道筋
4、木曽義仲挙兵の地「白鳥河原」
白鳥河原は武田信玄の軍も度々渡河したため「陣場道」とも言われています。ここからは、烏帽子岳南面に広がる海野氏の館址と矢立城址、祢津氏の館址と上ノ城、下ノ城址などが望めるため、源平の時代から戦国に至るまでの歴史の舞台が一望にできる絶景の地です。

参加者の多くが熱心に勉強していました。

5、海野と祢津を結ぶ「祢津道」「海野道」
「東山道」や「北国街道」のように正式の名称を持たない道は、お互いに行く先で呼んでいたので、同じ道でも二通りの呼び名がありました。
6、祢津氏の祈願寺「長命寺」
7、祢津氏の菩提寺「定津院」
8、祢津氏の館址

参加者は上田市在住の人ばかりなので、北国街道の海野宿には来たことはあるが、東山道や戦国時代の道、海野氏祢津氏関連の史跡には来たことが無かったとか、いつも車で通過していたので知らなかったと言って、とても熱心に勉強しているのが印象的でした。
ここまでが午前中の予定でしたが、1時間遅れで道の駅「雷電の里」でお弁当を開きました。
(次回に続く)

古代、信州で一番繁栄していた風景(街道繁栄物語第2回)

(前回からの続き)
お昼ご飯を東御市の雷電くるみの里で食べた後、午後は1時間の遅れを取り戻さなければいけないので、泣く泣く何か所か通過することになりました。ちなみに通過したのは滋野神社、海善寺跡、龍法寺、大日霊神社。いずれも海野道・洗馬道・上州街道と呼ばれる真田に向かう道沿いにある、それなりに言われのある史跡なので、機会があったら改めてご紹介します。

吉田堰から東の芳田方面の景色

さて、コースに戻って、
10、吉田堰と芳田
吉田堰は、上田市真田町石舟で神川の水を引いたのを出発点にして、真田町本原、殿城、芳田を経て,東御市深井地域に流れ込む用水路です。開削は奈良時代の養老年間という説もあり、始めは現在の芳田地域が終点だったため「吉田堰」と呼ばれています。「芳田」と「吉田」は字が違いますが、同じ土地を表します。昔の人は、同音の字を適応に当て字にしていたので、困ります。
写真は吉田堰から東に芳田方面を見たものです。画面奥が上田市の市街地の北部にそびえる太郎山です。芳田は信濃国府が上田市にあった時代(古墳~奈良時代)には、国府や国分寺などの穀倉地として早くから開けた場所で、古い地図を見ると古い条里制や古墳の跡が残っていました。今は圃場整備で跡形もありませんが、この場所に立つと、いかにこの地域が豊かな穀倉地帯だったかが、想像できます。これもひとえに吉田堰のおかげです。ちなみに現在でも吉田堰の管理の中心は取り入れ口の真田ではなく芳田地区の人々です。

全宗院

11、全宗院
創建は海野氏か矢沢氏と推定されますが、寺紋が武田菱なので、武田氏が信濃侵攻時に再建されたと推測でき、信玄の次男で盲目だった信親(竜宝)が海野氏を継いだので、この寺もそれにまつわる寺ではないかと言われています。
(つづきは次回へ)

消えてしまうかもしれない文化財(街道繁栄物語第2回)

(前回からの続き)
今回の道歩きも上田市殿城(とのしろ)に入りました。
殿城山(でんじょうやま)の裾野部分にある矢沢地区です。同じ「殿城」と書きながら、地区名と山名では読みが違うので、いつも混乱します。
矢沢は、戦国時代以前から、海野氏の一党だった矢沢氏の本拠地です。真田幸隆の弟・綱頼が矢沢氏に養子に入り真田領となりましたが、真田氏が松代に移封された後は、上田城主になった仙石家の分家の領地になり、明治維新まで続きました。

12、矢沢城
小さな集落ですが、北国街道や東山道の海野から真田そして上州や北信濃に続く上州街道や松代街道が通り、交通の要所でした。また、武田信玄が砥石城攻略のときには、その前線基地として矢沢城は重要な役目をしましたし、徳川軍が上田城を攻めた第一次第二次神川合戦でも、上田城の出城となりました。

13、仙石家代官屋敷
江戸時代に矢沢を領した旗本仙石氏の代官・田中家の屋敷です。現在も街道沿いに当時のままの屋敷が残っており、その門構えは城郭と同じ桝形の虎口があります。今回はご当主が不在だったため、門内は見学できませんでしたが、以前、見学した折りには、玄関や内部の構造も江戸期のままでした。なのに、上田市は文化財に指定しておらず、個人の努力だけで建物や庭を維持していらっしゃいますが、そろそろ限界のようでした。

仙石家代官屋敷

また、近くには領主屋敷跡があり、城郭を思わせる立派な石垣と、櫓が残っています。修復されているので、古い感じはしませんが、江戸時代の旗本屋敷の遺構として非常に貴重なものです。

城郭を思わせる立派な石垣と櫓

14、良泉寺
街道から分かれて参道を登ると良泉寺に行きつきます。ここには矢沢綱頼をはじめとした矢沢氏三代の墓と、仙石氏歴代の墓があります。本堂には真田一門を表す「六文銭」と、仙石氏の「永楽銭」の家紋が掲げられており、歴史の一コマを見るようで、面白いです。
写真の矢沢氏当主の墓にも六文銭の家紋が入っていますが、真田好きを標榜する歴史ファンもここにお参りに来る人はいないようです。残念ですね。

六文銭の家紋が入った矢沢氏当主のお墓

矢沢は今回歩いたコースの中で、一番古い街道の様子がうかがえる地区ですが、全く観光化されるどころか、地域誌も十分にまとめられておらず、このままだと、消えてしまうのではないかと心配な地域です。
(次回へ続く)

西方浄土への道 (街道繁栄物語第2回)

(前回からの続き)
矢沢から北に進むと、赤坂という集落に続きます。(写真は、下見の段階のものです)

15、瀧水寺
鎌倉時代、隣接する瀧ノ宮の別当神宮寺として開基されたといわれています。戦国時代、真田幸隆の弟綱頼がこの地を領していた矢沢氏の養子となり、寺名を瀧水寺としました。境内の背後の岩壁に建つ懸崖造りの観音堂からは上田市街地が見渡せ、砥石城や北アルプスに沈む夕日が絶景です。私はこの風景を「西方浄土への道」と呼んでいます。その絶景はぜひご自分で確かめてみてくださいね。

瀧水寺

16、瀧ノ宮
諏訪明神の末社で、創建は大旦那の矢沢氏が諏訪明神に奉仕する神人だったという家系から、鎌倉時代以前と推定できます。神社の背後にそびえる岩壁の間から湧き水が瀧のように流れ出ていたのが社名の由来ですが、現在は池に注ぐわずかな水だけです。この池には、山本勘助が目を洗ったため、片目の鯉がいたという伝説があります。

瀧ノ宮

17、男石神社
子宝や豊作を象徴する男根をご神体とする神社で、本殿の中には信者が祀った男根様がお行儀よく並んでいます。本当はもっとたくさんあったそうですが、いつの間にか少なくなったそうです。

男石神社

瀧水寺、瀧ノ宮、男石神社の前を街道は進み、いよいよ真田町に入ります。
まだまだ歩きたかったのですが、時間オーバーとなり、今回はここが終点となりました。
前回の矢沢、今回の赤坂と、同じ上田市で真田町に隣接する地ですが、参加者のほとんどが、いつも車で通るけれど、知らなかったとか、下の国道を通るので、存在を知らなかったとか、昔子供の頃来たけれど、街道という視点で見なかったので、面白かったとか。身近だけど知らないことがいっぱいだったと、喜んでいただけました。
参加者の皆さん、お疲れさまでした。
(街道繁栄物語第2回)の実況はここまで。次回第3回の講座は鳥居峠を越えて大笹街道です。また、歩きますから、覚悟して参加してくださいね。

鳥居峠から大戸宿まで歩きました(嘘です!)車で。

鳥居峠

4月20日に行われる真田中央公民館主催の講座「街道繁栄物語」第3回の実地見学会の下見をしてきました。上田市真田町から群馬県嬬恋村に通じる国道144号線とほぼ平行または重なって通っていた街道を歩きたいのですが、それは日頃運動不足の私には、無理! しかも講座受講者の平均年齢は65歳。そこで、バスに乗っての移動です。
下見では、長野県と群馬県の県境にある鳥居峠で、ご案内役の嬬恋郷土資料館の前館長の松島榮冶先生と現館長の黒岩秀二先生のお二人と合流して、午前中は嬬恋村内を丁寧なご説明をいただきながら、コースの確認をしました。
午後は、お二人と別れて、長野原町の狩宿、東吾妻町の須賀尾宿と大戸宿と廻ったのですが、なんと一部が冬季の交通止めと、道路工事のため、バスが通行できないということで、狩宿を諦める決断をしました。こういうのがあるので、やはり下見は大切ですね。
本番は5日後、それまでに足腰鍛えておかないと、バスの乗り降りに支障をきたすといけませんからね。
ちなみに、歩く場所には雪はありませんから、参加者はご安心を。

大戸関所

街道ってこんなに広いんだ!(街道繁栄物語第3回)

いよいよ真田中央公民館の街道繁栄物語の講座も3回目。本来なら3月に行われる予定でしたが、2月の豪雪で1ヶ月ずれて実施されました。これってホント良かったです。もし、予定どおりやっていたら、鳥居峠で凍死者が出ていたかも? 4月の下旬、市街地では桜も散ったので、油断していたら、出発地点の鳥居峠は標高1362メートル。侮ってはいけません。天候は雨が降らないまでも、霧(雲)に覆われ、気温はたぶん2~5度。鳥居の謂れや、左右にある二つの石祠の説明を聞いているうちに、身体の真から冷えてきました。

吾妻山を信仰する上州の人が寄進した祠

祠は四阿山を信仰する信州の人が寄進したものと、吾妻山を信仰する上州の人が寄進したものが並んで建っています。実は四阿山と吾妻山は同じ山で、信州側と上州側で、その表記が違っているのです。現在地図上では、四阿山になっていますが、これは上州人にとってはどうも面白いことではないようです。
写真は上州側の祠です。

仁礼道の碑(裏側から)

鳥居峠から国道を1キロくらい下った所から左斜面を登った場所に、「仁礼道の碑」と呼ばれる石の道しるべがあります。ここは、大笹から登ってきた旧街道が菅平を横断して仁礼に行く道と、渋沢温泉に下って上田に行く道に分かれる場所で、「右仁礼」「左上田」と刻まれています。幸いなことに、まだ幅3~4mくらいの道の形態が残って、左右に分かれています。

仁礼道の碑(正面から)

これを見た参加者が、「昔の道にしては幅が広くないか?」という質問をされました。どうやら、山の中の道だから、獣道のようなイメージを持たれているようでした。そこで、私の答は、「米俵2俵を左右に振り分けで背負った馬が、1日100匹以上行き来した道です。馬どうしがすれ違えないようでは困りますから、実際は今以上に道巾があって整備されていたと思います」。参加者の皆さんも改めて大笹街道の存在を実感してくださったようです。
(次回につづく)

関所が目白押しの大笹街道 (街道繁栄物語第3回)

信州側の峠道はかなりの急勾配でしたが、鳥居峠を越した上州側の道はなだらかな勾配となっています。これなら、上州から信州への道筋にこの街道を選んだ旅人も多かったことでしょう。
峠下の最初の宿場は「間の宿」の田代です。間の宿というのは、正式な宿場ではないのですが、宿場と宿場の間が離れていたり、峠があって時間がかかる場合などに、緊急避難的に作られた宿場です。田代も鳥居峠の登り口にあるので、かなり利用者が多い宿場だったようです。

吾妻山神社

宿場の中程に、吾妻山神社があります。これは越してきた鳥居峠のある四阿山の山頂に祀る白山権現の里社で、上州側では、山の名前を吾妻山と書くので、神社名も吾妻山神社です。神社の拝殿横からは、天気が良ければ山頂が望めるそうですが、生憎の天気で残念です。
田代の次がいよいよ街道名にもなっている大笹です。ここには「大笹関所」と言われる関所がありました。ちょうど今春、跡地に門が再建されたばかりで、どうやら私たちが最初の団体客のようです。

「大笹関所」と言われる関所

本来は門だけでなく、旅人を取り調べる番所や、役人の役宅なども併設されていましたが、そこまでの再建は難しいようです。もちろん、無いよりもいいし、実際あった場所にあるので、宿場の構造を知る上でも重要です。ところで、今回の見学コースおよそ30キロの中に、関所が大笹、狩宿、大戸と3か所もあります。これは、それぞれ沓掛道や草津道の分岐点に当たり、この街道を通行する旅人や荷を効率よく監視しようという政策です。

抜け道の碑

さて、大笹関所から裏山方向に現代造成された道を進むと、「抜け道の碑」と呼ばれている石碑があります。石には「揚雲雀見聞てここに休ふて 右を仏の道と知るべし 正道」と刻まれています。一見のどかな山道を詠っているようですが、実は「右に行くと抜け道」だよと、教えている道しるべだそうです。事情があって関所を通れない人、つまり通行手形を持っていない女性や渡世人たちが通った道だというのです。
右にそのまま行くと、どこかで鳥居峠に通じる道に出て、その先は信州、そして善光寺。まさに仏の道です。
(次回はいよいよ日本のポンペイ鎌原宿です)

大噴火でも消えなかった街道(街道繁栄物語第3回)

天明三年(1783)の浅間山の大噴火の凄まじさは、江戸でも火山灰が積もったり、その後の天候不順による大凶作の原因にもなったりして、日本史上の大災害でした。その直撃を受けたのが、今回歩いている大笹街道・信濃路なのです。

上州街道・大笹街道・信州街道地図

浅間山の北山麓は、現在見れば緩やか傾斜が続き、夏は一面のキャベツ畑が広がるのどかな風景です。その裾野をぐるりと廻るのが、大笹から高崎方面に続く大戸道です。現在は、キャベツ畑を開墾したときに、道を付け替えたので、街道の道筋が分からなくなっています。そこで、とりあえず、現在の道を通って鎌原を目指します。

嬬恋郷土資料館の屋上から見た浅間山

鎌原には嬬恋郷土資料館という浅間山大噴火の史料を中心とした博物館があり、今回のガイド役をお願いした前館長の松島榮冶先生と現館長の黒岩秀二先生に展示史料の説明をしていただきました。
(写真は屋上から見た浅間山ですが、生憎当日は天候が悪く見えなかったので、下見のときの写真です)

参加者の多くが嬬恋村に隣接する真田町の皆さんでしたが、初めて来たという方が多かったのが意外でした。資料館の後は隣接する鎌原観音堂です。ここは高地にあるので、大噴火のとき押し出してくる火砕流を避けるために宿場の人たちが登ったという石段の上部が残っているのが印象的でした。

参加者の多くが嬬恋村に隣接する真田町の皆さん

また、観音堂からは現在の鎌原宿が見渡せますが、大噴火前の家並みは火砕流に吾妻川付近まで押し出され、土石が6メートルくらい堆積したそうです。その後、生き残った鎌原の人たちは、再びこの地に街道と宿場町を造ったのです。すべてを流されても、再びこの地に街道と宿場町を造ったということは、いかにこの地が上州と信州を結ぶルートとして重要だったかが分かります。

観音堂から現在の鎌原宿が見渡せる

この後は、両先生にお別れをして、大戸宿を目指すのですが、途中が冬季閉鎖や工事のため、一旦吾妻川沿いの国道144号に出て、長野原草津口から再び国道406号で須賀尾宿を目指します。

特報! 上州街道に菜の花が満開

真田町境付近の菜の花畑

歴史の道を保存するためには、単に歴史的価値があると叫んでいても、なかなか歩いてくれる人が増えません。そこで、「歩いて守ろう信州の道」では、言われなくても歩きたくなる道にしようと、夏はそばの花、春は菜の花が咲き乱れるウォーキングコースづくりをしています。
もちろん、花なら何でもいいというわけではありません。やはり、このコースにチューリップやサルビアは似つかわしくないと思うのです。里山に本来あった姿を取り戻すことが、歴史の道をより理解してもらうためには、大切なことだと考えます。

最初の写真は、上州街道が上田市殿城赤坂にある瀧水寺・瀧ノ宮・男石神社の前を通り、真田町に入る町境付近です。菜の花畑の右側を街道が通っています。

真田氏の屋敷方面に行く道沿いにある畑

2枚目の写真は、上州街道が真田に入り、真田幸隆・信綱の時代に城下町だった上原・中原を通り本城方面に行く街道が、中原で分かれて真田氏の屋敷方面に行く道沿いにある畑です。正面には真田氏の支城だった天白城、その右奥には烏帽子岳が望めます。

砥石城が横たわる上州街道方面

3枚目の写真は、反対に屋敷方向から上州街道方面で、正面には砥石城が横たわっています。

建築デザイナーの大谷宗之さん

そして4枚目は、このブログ「歩いて守ろう信州の道」のトップページの絵を描いてくださった建築デザイナーの大谷宗之さんです。昨年の秋、この畑に菜の花の種を撒くのを手伝ってくださいました。以来、花が咲くのを心待ちにしてくださっており、今回、新しいプロジェクトのために上田に来ていただいたのですが、無理やり時間を作ってご案内いたしました。
蕾を摘んで食べていただいたら、美味しいと喜んでいただけたので、お土産にどっさりプレゼントいたしました。

国定忠治が破った大戸関所 (街道繁栄物語第3回)

鎌原を出発して、街道は浅間山の麓を等高線状に回って、長野原町の狩宿、そこから万騎峠を越して、須賀尾宿に出ます。
しかし、残念ながら今回は道路工事と冬季閉鎖で省略しました。狩宿には関所跡もあったので、ぜひ紹介したく、下見のときの写真をご紹介します。小学校の裏手、校庭の端に記念碑が立っています。

狩宿の関所跡の記念碑

須賀尾宿は高崎方面から来ると、分岐点で、草津道では須賀尾峠、信州街道では万騎峠という本格的な山地越えの手前です。ここには近くに湯川、鳩ノ湯、法師と隣り合う3つの温泉もあり、栄えた宿場でした。
これも残念ながら時間の関係で省略しましたが、宿場の中程に、浄土宗の定善寺という寺院があります。下見のときに訪ねたら、屋根に掲げてある寺紋がどう見ても「三つ葉葵」徳川家の紋所だったのです。庫裏がお留守だったので、後で由来を調べたのですが、不明のまま。機会があったら、再度調べたいと思います。そしてもう一つ、面白いものを発見! 本堂の左手、墓場の入り口に立つ仏様の乳房が、ボインなのです。仏様は概して中性化していて、あまり胸を強調することはないのですが、この仏様は明らかにあるのです。乳の出ないお母さんが信心した仏様なのかなとも思いましたが、これも宿題です。

墓場の入り口に立つ仏様

さて、今回のツアーの終点は大戸宿です。ここにも関所の跡があり、木戸が再現されています。

大戸宿の関所跡

この関所で、まず語るべきはお尋ね者だったために関所が通れず、裏道を行ったために処刑された上州の英雄・国定忠治でしょうか。昔は地回りの芝居には必ず登場したスーパーヒーローで
「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定の村や縄張りを捨て、可愛い子分のてめえ達とも別れ別れになる門出だ」

という台詞をみんな言えた時代もあったのです。それが、今や「忠治って誰?」という時代になりました。幸いにも今回の参加者はほぼ全員ご存じだったようで、そのあと、忠治の処刑跡にある慰霊塔にしっかりお参りをされていました。

忠治の処刑跡にある慰霊塔へお参り

どうも歴史のヒーローも流行り廃りがあるようで、任侠つまりヤクザが主人公の時代劇は今や絶滅ですね。そういえば、以前あるNHK前橋放送局の職員が「上田はうらやましいね!真田幸村がいて。群馬で大河を作りたくても一番有名なのが、国定忠治だというのは辛いね」と言っていたのを思い出します。今思えば、・・・・・。頑張れ群馬!

まだまだ、ご案内したいことはありますが、連続講座「街道繁栄物語第3回」大笹街道・信州街道はこれで終了。次回の第4回は5月25日に実施する仁礼街道・善光寺街道です。お楽しみに。

上州街道・大笹街道・信州街道・草津道の地図

仁礼街道は本気のトレッキングです

真田中央公民館の「街道繁栄物語」の講座もいよいよ最終回。今回も万全を期して、下見をしました。今回ご案内くださるのは須坂市仁礼の自称「炭焼常人」こと篠塚久義さんです。年に一度炭焼きをしていらっしゃるそうで、山歩きの達人です。

須坂市のレベルの高さが感じられる道しるべや石仏の解説板

出発地は上田市と須坂市の市境。上田市側は牧場になっており、立ち入り制限がある上に、街道の面影すらない状態なので、ここから須坂市側に向かって歩き出しました。まずは、「なめり峠」越えですが、すでに峠の頂上なので、須坂市側に向かっては下りの連続です。クマザザの中に高さ1メートル弱の土手道が続いています。これは冬場、雪で道が見えなくなったとき、旅人が迷わないようにわざわざ造成された道です。現在はクマザザが繁殖して消えそうですが、毎年初夏に須坂市仁礼の「仁礼会」の皆さんが総出でクマザサを刈り取ってくださっており、なんとか道の形態が残っています。これこそが、「歩いて守ろう信州の道」の鏡ともいうべき行いだと、感激しました。歴史ある道さえも捨てようとする上田市民。ぜひ見習ってもらいたいと思いました。
その他、道しるべや石仏の解説板など、須坂市のレベルの高さに感服です。

街道の途中に点在する石仏や石碑

出発点から1キロくらいはわりと平坦な道ですが、その後の2キロはつづれ折れの急勾配なので、足元を注意しながら歩きました。しかし、ここも樹木から落ちた小枝などを排除してあるので、ふわふわした土の感触が足に心地良いくらいでした。途中には石仏や石碑も点在し、まさに街道をゆくという気分が十分に味わえるでしょう。

大谷不動の参道入り口に立つ黒門

合計3キロ半くらいで、とりあえずの目的地、大谷不動の参道入り口に立つ黒門に到着です。ここからはバスに乗る予定ですので、参加者の皆さんは、ここまでは頑張ってくださいね。
街道名にもなっている仁礼の宿で、お弁当を広げ、宿場の跡を見学したのち、一路終点の福島宿を目指します。福島宿は北国街道の松代道、千曲川の渡し、そして川下りの船着場として栄えた宿場町で、現在も本陣跡や寺院の荘厳さにその繁栄ぶりが偲ばれます。
という訳で、最終回は街道の面影をたっぷり味わっていただけると思いますが、くれぐれも足回りだけはしっかりとして、水の補給もお忘れなく。

川下りの船着場として栄えた宿場町の福島宿

地吹雪の峠越えを護った土手道(街道繁栄物語第4回)

真田中央公民館の「街道繁栄物語」の講座もいよいよ最終回の仁礼街道(大笹街道)です。今回は本気の山歩きというので、気合の入った出発になりました。

仁礼街道(大笹街道)に建てられた道しるべ

まずは菅平高原の北西に位置する峰の原にある東京都渋谷区の山の家の裏から出発です。ちょうどここは、上田市と須坂市の市境に当たり、上田側は菅平牧場になっているため、柵があって侵入禁止なので、歩くのは須坂市側だけです。今回の最大のお目当てである「土手道」も上田市側は牧場や別荘地開発で消滅しており、須坂市側しかないので、ここから土手道観察を始めました。

須坂市側から土手道観察を開始

土手道というのは、仁礼街道(須坂市側からは大笹街道)の最大の難所である菅平を通る道に、土を盛って土手のようにしたものです。菅平は標高が平均1000mを超え、特に今回歩くなめり峠(須坂市は峰の原峠と呼ぶ)は1600mもあって、日本海側から吹く風が上昇気流となって、天候が厳しく、雪も地吹雪となるような場所です。そのため、冬場は遭難者が続出しました。

冬場の遭難者を防ぐため築かれた土手道

それを防ぐため、江戸時代末期に須坂や真田の人たちが道に土手を築いたのです。なぜ、土手がいいかというと、吹雪いて先が見えなくても、土手道に沿って歩けばいいし、地吹雪になれば土手の肩で雪が飛ばされ積雪が少ない。もし雪が積もっても、土手が盛り上がるので、目印になり、道に迷わないで進めるというのです。なるほど、昔の人の知恵は素晴らしい! 今年の冬、真田で積雪1mのために、道しるべもガードレールも見えなくなり、除雪しても次から次に降る雪ですぐに埋まってしまった道を経験したので、この土手道の有難さが十分理解できました。

先人の知恵により築かれた土手道

しかし、この土手道も現在は存亡の危機にあります。というのは、昔は周りが草原で、毎年春に野焼きをして形を維持していました。それが、別荘化が進んだために野焼きをすることが出来ず、カラマツなどの樹木やクマザサの群生地になってしまったのです。そのため、毎年、人間がクマザサを刈らなければ、すぐに土手道の存在が分からなくなってしまうのです。
この危機に立ち上がったのが、須坂市の財団法人仁礼会の皆さんです。この会は元々、峠の下にある仁礼宿の皆さんが、共有の財産区だった山を管理するために組織された会で、仁礼の集落の人がみんな会員だそうです。その会の人たちが、毎年この時期にクマザサを刈って道を整備しているのです。なんと私たちが歩いた、この日がその作業日だったのです。そのため、各所で草刈機の音がして、私たちが通ると作業を止めてくださいました。
ここにも「歩いて守ろう信州の道」の心が生きていることが分かり、とてもうれしく思いました。
最後の写真は、2週間前の下見のとき見た、クマザサに覆われた土手道です。このままほっておくと、夏には道は完全に分からなくなるそうです。

クマザサに覆われた土手道

仏と歩む つづら折れの山道 (街道繁栄物語第4回)

仁礼街道の概念図

仁礼街道はなめり峠(峰の原峠)の須坂青年の家の裏手を通り、スキー場のリフトを過ぎるころ、土手道から普通の山道に変わり一気に急坂となります。右に左に折れ曲がるまさに九十九折(つづらおれ)の道です。道沿いには、道面から一段高いところに、石仏が建立してあります。石仏の刻文字は風化しているものが多く正確には文字が読めませんが、道を整備している仁礼会が、建立者の名前や住所、建立年などを書いた説明板を立てているので、その由来が分かります。

道沿いに建立してある石仏

また、ガイドをしてくださった篠塚久義さんの説明では、上州の人が建立した石仏と、信州の人が建立した石仏では、石の質が違うらしく、信州がもろく風化が激しいのに、上州は固く刻文字も読みやすいそうです。ということは、ここは信州なので、石をわざわざ上州から運んで来たのでしょうか。昔の人の信仰心のすごさを改めて感じます。
徒歩の目的地、大谷不動の黒門までの3.5キロの間には、仁礼会の調査で30体くらいの石仏と山の神の祠があるそうです。急な斜面のため土砂崩れなどで行方不明になることも多く、探しては祀っているそうです。

大谷不動の黒門まで30体くらいの石仏と山の神の祠がある

この山道でも大勢の仁礼会の方にお会いしました。皆さん、道に倒れている倒木を整理したり、草を刈ったりして、この仁礼街道を護っていらっしゃるのです。おかげで、カラマツ林などは落ち葉だけで小枝がないため、ふかふかしてまるで絨毯の上を歩いているような感じで、とても足に優しい道となっていました。
道の整備の最後は、石仏、慰霊塔、祠に真新しいしめ縄を掛けて、今年一年の街道の無事を祈るそうです。

真新しいしめ縄を掛け一年の街道の無事を祈る

昔は仁礼街道だけの特別な行為ではなく、全国で行われていたことだったのです。それなのに、道が人間の歩く道から車の走る道になったとき、人々は道を護るのは人間だということを忘れてしまったようです。その結果が、2年前の中央高速道路の笹子トンネルの落盤事故に繋がるのです。
明日、その笹子トンネルを通るのですが、神様仏様、どうかお守りください。

歴史を学ぶことは命を守ること(街道繁栄物語第4回)

菅平高原から出発した今回の街道歩きも、いよいよ街道名にもなっている仁礼宿を目指します。ただし、大谷不動の黒門からは、旧街道に沿って走る林道をバスに乗って移動しました。林道沿いにも、石仏が26~27体あるそうですがこれは車窓からの見学です。
仁礼宿に入ると、いきなり開けた場所に大きな「災害復旧記念碑」が建つ広場がありました。ここは、今から33年前の昭和56年8月23日に、台風15号の豪雨のために土石流が発生し、被害家屋23戸、死者10名という被害を出た場所です。ガイドをしていただいた篠塚さんのお宅も一部土石流に埋まったそうです。

33年前に建てられた災害復旧記念碑

篠原さん曰く「一度あることは二度あるので、住居を決めるときは、必ず土地の歴史を調べて欲しい」と力説されていました。
今年も梅雨入りから豪雨続きで、全国で土砂災害が心配されていますが、ぜひこの教訓は生かして欲しいと思います。
復旧記念碑の前に、線彫の石仏が祀ってありましたが、これは土石流で流失したものを、昭和元年に復元したものだそうですが、これも仁礼会の事業だそうです。ここまで歴史にこだわる仁礼会の執念に脱帽です。

宿場の至るところに設置されている石の道案内

宿場の中には、至るところに、上品でさりげない石の道案内が設置されています。こんな田舎(失礼)で、めぼしい観光施設もないのに、この気配り。やはりすごい!
宿場内には「上の問屋」「下の問屋」と呼ばれた本陣が2軒と、「新問屋」があり、峠を目前にして、いかにこの宿場が栄えていたかが偲ばれます。また、宿場の南北にそれぞれ松代藩の「口留番所」もあり、荷物や人の往来が厳しく制限されていたことも分かります。
宿場内にもいろいろな石碑がありますが、面白いものを発見しました。

「道祖神」という双体道祖神の一つの形

「道祖神」と彫られた石碑の足元に木に人の顔を書き、紙の着物を着せた人形が二つ。篠塚さんの説明だと、この地方では、これが双体道祖神の一つの形だそうです。
仁礼宿の最後は、関谷の馬頭観世音です。

関谷の馬頭観世音

完全走破!真田道 (街道繁栄物語第4回)最終回

仁礼街道(大笹街道)概念図

真田中央公民館の「街道繁栄物語」の旅もいよいよ最終回です。仁礼街道(大笹街道)の終点は、北国街道の松代道と合流する福島宿です。北国街道は中山道の追分から分かれて千曲川沿いに小諸、海野、上田、と進み矢代で善光寺を通る善光寺道と、松代を通る松代道に分かれ、神代宿の先で再び合流します。

福島町区の史跡地図

現在の福島宿は、交通の要路から外れたため、町の規模と地割のサイズが江戸時代のままなので、宿場の構造がよく分かります。

宿場の入口を表す桝形のクランク道に並ぶ宿場で一番古い西福寺と本陣だった竹内家

今回は千曲川沿いに南北に伸びる北国街道の北方向から歩いてみました。まず宿場の入口を表す桝形のクランク道があり、そこには、宿場で一番古い西福寺と本陣だった竹内家が並んで建っています。

千曲川が川面が波打つような西福寺の山門の屋根

西福寺の山門の屋根の棟の部分がまるで千曲川が川面が波打っているようで、興味深かったです。

大笹街道の起点となる道しるべ

宿場の真ん中あたりに、「左草津仁礼道」「右松代道」と刻まれた大笹街道の起点となる道しるべがあります。ここから北国街道を行くより、今回私たちが通った仁礼街道大笹街道を通って江戸に行く方が6里(24㌔)も近かったので、北信濃の産物の多くがこの道を通ったのです。また、この福島宿には千曲川の河岸があったため、上州方面からの産物が日本海側に多く運ばれました。

そのため、荷物を一時的に保管する荷蔵も立ち並び、その繁栄が偲ばれます。

荷物を一時的に保管する荷蔵が立ち並ぶ

1月の座学、2月の豪雪で延期、3月の東山道と上州街道、4月の大笹街道、5月の仁礼街道。これで、真田氏と真田の郷に直接関わる道をバスも一部使いましたが、一応完全走破しました。まだ、郷の中には脇道がたくさんあるのですが、今回は国道級の道に絞らせていただきました。

毎回言うので、また始まったという顔をする受講者もいらっしゃいましたが、こうやって、現代の私たちが昔の道を歩いて、歴史を紐解けるのも、ご先祖様が一生懸命に守ってくださったおかげです。車社会になり、アスファルトで舗装された道だけを通っていたら、歴史の道はどんどん失われていきます。今回も地図には載っているが、現実にはどこにあるか分からないという街道すらありました。
このブログを書いている今日、ちょうど群馬の富岡製糸場が世界遺産に登録されました。これだって、生産を停止し使われなくなったために、取り壊しの話が何度も出ていたのに、頑なに自費で保存をしていた一企業があったからこそ、今日の日を迎えたのです。
2016年の大河ドラマ「真田丸」も決まり、真田の郷には全国から大勢の歴史マニアが来ます。真田幸村が歩いた道、それとも車のために造ったバイパス、さて、どちらの道を案内したら、喜んでいただけるでしょうか。

緊急報告! 公道封鎖の柵の正体は?

このブログでは、タイトル「歩いて守ろう信州の道」という文字通り、現在、消滅の危機にある信州の歴史的遺産の道を後世に伝えるために、実際に歩き、そして整備することが大切だと訴えてきました。そのために、機会あるごとに上田市民の皆さんのガイド役として実際に信州の道を歩いてきました。その甲斐あって、少しは皆さんにも歴史の道の大切さをご理解いただいたかなと思っていましたら、またまた事件です!

突如、公道に置かれた柵

地元の方から、「赤線に変な物が建っている」との通報をいただき、現地に向かって見ると、そこにはなんと手作り感いっぱいの柵が設置されているのです。通称「赤線」と呼ばれる里道は、一時国の管理下に置かれ、のちに地元の自治体に移管されたれっきとした国有財産の公道です

何のために置かれたのか不明な柵

ホームセンターで売っている家庭用の小判ネットをビニールひもで編んで留めた、まるで手芸のようなネット。郷の人たちは「イノシシやシカ除けとしては何の役にも立たないし、犬や猫だって通り抜けるだろうに、何のための柵だろう?」しかも、「こんな手芸のような柵、郷の人は絶対に作らないよ。誰が作ったんだろう」と不思議がっています。

柵の設置場所は、私がこのブログの第1回(2月21日)でもご紹介した石畳の残る道へ、自動車道路から最短で行ける道です。この道は明治27年の公図にもはっきりと載っている道で、元は傾斜の緩やかな道でした。それが新しく自動車道路を作るときに斜面を削ったために、現在は急な傾斜になっているため、確かに通る人は少なくなっています。しかし、この道は石畳の支線にあたり、明治時代には隣集落の赤坂の子供たちが本原小学校に通う通学路だったのです。

草を刈って整備した道

3枚目の写真は昨年の夏、私が草を刈って道を整備したときのものです。
まずは、とりあえず、上田市の道路管理課に通報して、撤去してもらうようにお願いするつもりです。さあ、歴史を大切にすると標榜している上田市の職員の方たちの本性が問われますね。

明治27年の公図で示す柵の位置

明治27年の公図です。ピンクの➡がカメラ目線。黄色の線が柵の位置です。紫の線が石畳で、黒線に数字がついているのが長さです。

さて、大河ドラマに「真田丸」が決まり、これから真田氏の歴史が再検討される時期になり、真田氏にとって大事な「砥石城攻め」で信玄が本陣を置いた場所への道です。そんなとき、まるで「イヤイヤ」をするような子供じみたこの柵は誰が何のために設置したのでしょうか?

合戦劇のキャスト発表!いよいよ稽古本番

『歩いて守ろう信州の道』のブログに、今回の話は一見関係がないように思えますが、実は「歴史の道」を守るためには、郷の歴史を皆に知ってもらい、愛してもらうことこそが、大事なことであり、成功への近道だと考えています。
そこで、昨年から上田市真田町で開催される『真田まつり』の合戦劇の演出を引き受けました。

上田城甲冑隊と公募で集まった市民、そして殺陣サークル眞のメンバー

6月中は上田城甲冑隊と公募で集まった市民、そして殺陣サークル眞のメンバーが合同で、「殺陣サークル眞」の代表である小林浩太郎さんの指導のもと、殺陣の基礎訓練をみつちりしました。昨年は、稽古時間が少なかったので、この辺がいい加減でしたが、今年は皆さん姿勢も良くなって戦国武将らしくなり、殺陣にも迫力が出てきました。

迫力ある殺陣の訓練

そして、7月に入り、稽古も本番です。5日には台本の決定稿を全員に配布し、真田幸隆や幸村など、名のある役につくキャストの発表をしました。また、今年は声の出演に上田城ボランティアガイドの皆さんが参加してくださり、喋り慣れた声で、よく響くと思います。

キャストの発表

今回は総勢40名を超える規模になったので、陣形の説明などは、大判の模造紙と色画用紙を使い、全員に見えるように工夫するなど、稽古の時から工夫が必要でした。

大判の模造紙と色画用紙を使った陣形の説明

さて、これから週一度の練習ですが、体育館いっぱいに広がったこの人数で、私の美声が持つか心配です。同時に水曜日には、アサヒ・アートスクエアの「江戸の茶屋」でも講演をしなくてならず、ちょっと心配な7月です。

ソバの花が開花して、柵が消え、いよいよ真田まつり

早や花を咲かせ始めたソバの花

1ヶ月前の6月28日蒔いたソバの種が、早や花を咲かせ始めました。ソバの成長は早いとは聞いていましたが、まさか1ヶ月で開花とは。そのかわり丈が50センチ程度と低いのですが、これから台風シーズンでもあるので、丈が低い方が倒れ難くて好都合です。
これから、畑の周りの草を刈って、道から花がよく見えるようにお化粧です。昨年、種が落ちる前にソバだけでなくオオブタクサなどの雑草も倒し、今年は雑草の芽が出たところで、土を掘り返したので、現在のところ、畑の中の雑草が少なく、見栄えもいいです。やはり、毎年の雑草退治の効果が出てきたようです。この積み重ねが農業なんですね。

畑の周りの草を刈って、道からよく見えるソバ畑

大河ドラマのおかげで、真田の郷にも観光客が増えてきました。御屋敷公園まで来られたら、その隣ですので、ぜひこのソバ畑を見にきてください。

策が撤去された歴史の道

前回、ご報告した歴史の道の封鎖事件ですが、私が市役所の道路管理課にお願いに行った翌日、早速担当者が現場に来て、現状を確認し、近隣の住宅に問い合わせたところ、誰も設置した憶えがないとの返答だったそうです。設置者が不明なら、市で撤去することを検討した矢先、なんと翌日に封鎖していた柵が消えたそうです。
どうやら、市が違法だというので、調査に来たことを知った設置者が自主撤去したのではないかと考えられます。何事も放置しておくと、無法地帯になりますが、監視の眼があることを周知させれば、自然と管理が行き届くという例ですね。

さて、8月2日土曜日は、いよいよ真田まつりの本番です。私が演出を担当した「真田幸隆・痛快砥石城乗っ取り」が15時から、「真田幸村・風雲真田丸の戦い」が16時30分から開演します。
27日には会場の真田運動公園グランドでリハーサルを行い、各軍の動きを確認しました。
まつり当日は、きらびやかな甲冑や、色鮮やかな幟、そして騎馬武者も登場して、合戦絵巻が繰り広げられますので、ご期待ください。

徳川軍のリハーサル

徳川軍のリハーサル

真田軍のリハーサル

真田軍のリハーサル

いざ、出陣! 真田の郷の再生絵巻

8月2日の真田まつりの合戦劇のお話は、私のブログ『東奔西走』を読んでいただくとして、ここでは、真田の郷に再生した古式ゆかしい絵巻のご報告をいたします。
昨年の真田まつりの当日、観光客のために、町内の真田氏ゆかりの地を回る循環バスが走行しました。私も午前中乗ってみたのですが、肝心の真田氏の氏神様「山家神社」と、菩提寺「長谷寺」ではがっかりしました。
なぜなら、山家神社には私のご指導したボランテアガイドさんがいるだけで、祭りらしい飾りつけも、催しものもなく、いつもと同じさびれた神社のたたずまいなのです。そのため、バスに乗った人たちも降りないまま行き過ぎるという寂しさでした。
長谷寺は、真田幸隆、昌幸のお墓もあるので、下車する観光客はいるのですが、境内はいつもと変わらず。午後には、境内でマジックショーが催されたらしいのですが、観光客はほとんど無視していたようです。
そこで、昨年。真田まつりの反省会のとき、私は「なぜ、菩提寺でマジックショーなのか。神社は神社らしく、寺は寺らしく、お客様を迎える方法があるのではないか」と、苦言を呈しました。
その苦言が功を奏したのか、今年はそれぞれが連携して、実に神社らしく、寺らしく催しものを行ってくださったのです。

長谷寺の出陣式では舟形の山車に絵馬を飾り付ける

まずは、長谷寺では「真田三代御御霊法要」と「出陣式」。出陣式では、皆さんの願いことを書いた絵馬を飾りつけた舟形の山車を引き出し、修験者が法螺貝を吹いて出陣を祝うという、修験道が盛んだった真田の郷ならではの姿が復活したのです。

修験者が法螺貝を吹いて出陣を祝う

長谷寺を出発した山車は、郷の人たちに引かれて坂を下り、真田氏の名の由来ともなった真田の集落に入り、山家神社に。
のどかな郷の中を進む山車の行列には、観光客も交じり、中には外国の方もいたのにはびっくりです。

のどかな郷の中を進む山車の行列

山家神社では、神主のお祓いのあと、巫女による「浦安の舞」が奉納され、おごそかの中にも祭り気分が盛り上がります。

巫女による「浦安の舞」が奉納

今年の春、偶然にも長年諏訪神社に神主修行に出ていた若宮司が戻られて、これから山家神社再生の道が開かれたこともあり、一層の華やかさがありました。
私は午後の合戦劇があるので、ここで失礼したのですが、この後、「しり相撲大会」や「神宝の御開帳」などもあり、例年にない賑わいだったようです。

例年にない賑わいを見せた「真田三代御御霊法要」

大河ドラマ効果とはいえ、郷の人々が、郷の再生のために何をなすべきかに気付いてもらえてような気がして、とても心強くうれしく感じました。
ちなみに、循環バスに乗り遅れた私は、長谷寺の副住職の車で、グランドまで運んでもらいました。なぜなら、祭りの仕切りの人たちはすでにお神酒を飲んでいて、いざというときの役に立たなかったからです。これは危機管理能力に問題ありですね。

ちょっとだけ、信州らしい夏休みを過ごしました。

3年前の夏、ドラマ「JIN-仁-」の骨休めの避暑に来たはずなのに、あれから4回目の夏が過ぎようとしていますが、毎年毎年、やることが多くなり、骨休めどころか、骨折りに信州に来ているような状態になっています。
今年も6月7月と東京と上田を毎週行ったり来たり、危うく信州で熱中症に2回もなりかけて、これなら東京にいた方がマシだなんて思ったこともありましたが。
でも、自然がいっぱいあるし、美味しいものはあるし、第一東京ではできない遊びもあるのです。

上田花火大会の様子

「真田まつり」の終わった2日後、今度は「上田花火大会」で、これはあくまで観客です。1年目2年目は、真田の庵からの見物でした。ちょうど、駐車場に出ると、千曲川の中洲で揚がる花火が小さいながらもよく見えるのです。そして3年目の昨年は母袋上田市長のご招待にあずかりまして、千曲川の堤に設えられた桟敷席から拝見しました。近すぎて、首が疲れましたが。

上田市小牧にある友人の家に招待され、ホームパーティー付の花火見物

そして、4回目の今年は上田市小牧にある友人の家に招待され、ホームパーティー付の花火見物です。そこで、図々しくも私の関連会社の女性たちも参加させていただくことになり、大はしゃぎです。美味しい料理をいただきながら、ゆったりと花火見物なんて、東京じゃ数万円払ってもできることではありません。
なんだか、私の「上田花火大会」は段々豪華になりますね。これってもしかして、それだけ上田と縁が深くなるということでしょうか?

千曲川の河川敷にある鮎料理の専門店「鯉西」さんで鮎のフルコースを堪能

翌日は、昨日の花火大会で会場となり、大混雑していた千曲川の河川敷にある「鯉西」さんという鮎料理の専門店へ。昨日の喧騒が嘘のように極々普通の河川敷に戻っていました。鮎のフルコースに、昨夜あれだけ飲んだり食べたりした女性軍団は、またまた大はしゃぎです。

仲間たちと過ごした信州での楽しい夏休み

たぶん、普通に避暑に来て遊ぶというのは、こういうことかな。東京より信州の方が忙しい私は何だろう、なんて思いながら、仲間たちと短いながらも楽しい夏休みを過ごしました。

一面に咲いた花畑

消える道にやっと気がついてもらえたようです

8月23日上田市真田図書館で開催された「真田塾」で「道からみた真田氏の繁栄」というタイトルで講演をしました。
上田市民が大河ドラマで浮かれているので、あえて地味なタイトルにしてみたのですが、今年で3回目を迎えるせいか、参加人数が増えて今年はとうとう定員オーバーになってしまいました。しかし、図書館が来場者をすべて着席させてくださったので、少し窮屈になりご迷惑をおかけしましたが、皆さんに聞いていただくことができました。

上田市真田図書館で開催された「真田塾」

今回は「道から見た真田氏の繁栄」というタイトルで、上田市殿城から真田町に通じる上州街道に因む話をするつもりだったのですが、会場でお顔を見たら、その沿道に住む方々が大勢いらっしゃったので、最初から異常にテンションが上っていました。また、会場に掲げられたタイトルの文字が、図書館のサポートの会の方が書いてくださった力強い字だったのも、私に話す気力をくださいました。
さて、講演の内容は、真田の郷が奈良時代以前から東日本のメイン街道だった「東山道」に近く、北信濃や上毛地方を結ぶ支道が通る交通の要で、多くの物資や人そして軍隊が通り、その要の争奪があったこと。
そしてその勝利者が真田氏であり、その後の真田氏繁栄につながったという話を各時代の地図を使って解説しました。
ここまでは、スクリーンの地図の文字が小さく見えにくかったせいもあり、なんとなく眠気をもよおしそうになったので、ここから大急ぎで話を切り替え、いよいよ80枚のスライドショーに移りました。

上州街道を殿城の矢沢城址から真田の小玉神社までの道のりを紹介

80枚も何を見ていただいたかというと、すべて上州街道を殿城の矢沢城址から真田の小玉神社までの2キロの道を歩くと見える風景ばかりです。つまり、この2キロを旅番組のように参加者の皆さんに一緒に歩いた気分になってもらおうという趣向です。
矢沢城と良泉寺では、真田幸村がここ真田にいた2年半とその後、上杉景勝のもとに人質に出されたとき、常に一緒だった矢沢頼幸の話をしました。幸村より二つ年上で、頼幸の父・頼綱は幸村の祖父・幸隆の弟でした。つまり、幸村の父・昌幸の従兄弟の子です。

矢沢氏系図からみた真田氏系図

この人物が幸村の青春時代、唯一の友として記録に残る人物なのです。猿飛佐助なんかに頼らず、本来はこの人物に光を当てるべきだと思うのですが、上田のガイドブックには一切載っていません。
さて、本題の道ですが、良泉寺から瀧水寺、出早雄神社、瀧ノ宮、男石神社と進みます。出早神社が平安時代前期には信濃国の有力神社と数えられ、瀧ノ宮は諏訪社の支社として鎌倉時代には存在していたことなど、ここは上田地方だけではなく、信濃国の中でも歴史ある地域だと話ました。
すると、この辺から、参加者の顔色が段々生き生きとしてきました。まさに自分の氏神様の話になってきたのです。

「永禄二年」の年号の入った祠

そして大詰めは、私が発見した「永禄二年」の年号の入った祠の正体と、石畳の道の話です。詳しい話は『新説真田三代ミステリー』を読んでいただくとして、ここではその石畳へ続く公道(赤線)が封鎖された事件と、その封鎖解除に私が何をしたかをご報告しました。

石畳へ続く公道の封鎖解除に関するエピソードを紹介

すると、その道の画像見た参加者から「昔、木のこを取りにいった所だ」と声が上がりました。そうなんです、その道は昔皆さんが自由に山に入って、山の恵みをいただいていた道だったのです。
その道が、郷の人が通らないから、封鎖して個人の土地に囲い込もうとしている事実を、今回郷に人たちに写真をお見せして理解していただけました。

自分の知らないところで郷がどんなに荒れようと、自分が使わない道が無くなろうと、まあ、いいやという考えでいいのか!
そういう意味で、今回参加した郷の人たちは、事実を知ってしまったのです。
さて、知ってもなお、知らん顔をするのでしょうか?
これから、真田の郷の人たちの本当の郷土愛が試される時期に来ているような気がします。

回らない水車と消える道

長野新幹線の上田駅前にある巨大水車。日によって回転している日と、回転していない日があります。この写真は回転していない日。8月の最後の日曜日で、まだ観光シーズンです。

長野新幹線の上田駅前にある巨大水車

なぜ、街の真ん中に水車があるのかは、後日の話題にするとして。なぜ、回転したりしなかったりしているか。物知りの人は「流れている水量が違うからだよ」とおっしゃるでしょう。普通はそうですが、この水車の事情は違うのです。最初設置したときは、流れる用水に回転するだけの水量があり、水車の回転で発電もしていたのです。それが、近年水量が減り、回転しなくなったのです。
そこで上田市は水利権を持っている国に、増量を交渉しているのですが、観光のために流す水より、農業用水の方が重要だとして、回してくれないのです。そのため、私が上田に来るようになって3年、動いているのを見たことがありませんでした。
それが、この春から時々動くようになって、問題が解決したかに見えたのですが、実は市議会でこんなやり取りがあったのです。
「うえだ市議会だより」より
3月定例市議会で、議員より「年間を通して稼働できないのか?」都市建設部長「この春、モーターを設置して回転させる予定である」
どうやら、それまでの発電機も壊れたので、それをいい機会に電気で回転モーターを回すということになったようです。
それが、3月に市議会議員の改選があり、6月の市議会では、別の議員から「水車は水で回るから水車だが、電気で回していると観光客が知ったら、環境に配慮しないまちとして悪いイメージをもたれないか?」と質問された都市建設部長「検討していきたい」と答弁。春に自分が指示をして設置したモーターを自分が指示して撤去する役人はまず居ませんね。
おかげで、観光シーズンだというのに、駅前の水車は環境を配慮して電気を使うことなく、回っていないのです。

さて、今年の夏は信州も雨が多く、私が行くたびに雨が降っていました。おかげで、「歩いて守りたい道」の草刈が出来ずにいました。やっと9月に入り、気温も下がってきたので、2日ほど草刈をしました。
昨年は、尾根道の北側の樹木が冬の間に切り倒されたため、日当たりがよく、土も乾燥していたため、草もあまり伸びず、道筋もはっきり分かりましたし、周りの風景も楽しめました。

昨年は道筋がはっきりと分かった「歩いて守りたい道」

それが、今年は雨が多かったのと、隣接地が草刈をしないため、秋に種が飛んできたり、枝が伸びたりして、すっかり藪になってしまいました。

草木が生い茂り藪になってしまった「歩いて守りたい道」

なんとか、大鋏で切り開いたのですが、とても手に負えません。伸びた枝もニセアカシヤやノイバラなので、大きなトゲに何度も刺され、まさに血のにじむ思いをしました。
それでも、なんとか道筋を残しておかないと、来年には本当に通れなくなりそうです。

道筋を残せた昨年の様子 大鋏で切り開くもなかなか手に負えない状況

先日の真田図書館の講演でもこの道をご紹介し、「あ、知っている!」という声も聞こえましたが、それから2週間。甘える訳ではないのですが、誰も通ってみようとか、伸びた草を刈ろうという奇特な町民はいなかったのでしょうかね。
これが上田市の現実なのですね。トゲの傷口に絆創膏を貼りながら、淋しくなりました。

道でつなぐ ふたつの真田

9月12日群馬県沼田市の正覚寺で開催された講演会でお話をしました。この地域での講演は4回目。1回目はみなかみ町の観光協会主催。2回目は真田氏ゆかりの寺院の会。3回目は猿ヶ京まちづくり協議会。そして、今回は寺院の会とみなかみ町の蛍月会の合同と観光関係の主催が多いです。
会場となった沼田市は、真田幸村の兄で、のちに上田城主、松代城主になった真田信幸(之)の最初の居城があり、正覚寺は小松姫と呼ばれた正妻「大蓮院殿」のお墓がある寺です。

正覚寺は真田信幸の正妻、小松姫お墓「大蓮院殿」があるお寺

写真は小松姫のお墓ですが、逆光があまりにもきついので、裏側からの撮影になってしまいました。失礼しました!
今回は、大河ドラマが「真田丸」に決まったことを受けて、なんとか「真田街道」でつながる上田市と連携を取って、真田氏の足跡の残る群馬県吾妻地域にも観光客を誘致したいという思惑いっぱいの会でした。
そこで、まず、観光客誘致と騒ぐ前に、やることがあるんじゃありませんかと、思いっきり冷や水をかけてしまいました。

正覚寺から河岸段丘下の沼田駅方面

写真は正覚寺から河岸段丘下の沼田駅方面です。

実は、昨年あたりから真田氏の繁栄のもとは信州と上州を結ぶ道にあるのではないかという仮説を立て、実際に何度か歩いて実地調査をしていました。その過程で、遺跡や観光名所にいろいろな問題点を発見していたのです。
そんなところに、今回の講演会ですから、タイトルも「道でつなぐふたつの真田」として、実際に撮影した写真を紹介しながら、ここぞとばかりに次々に問題点を挙げ連ねてしまったのです。もちろん、それだけでは失礼なので、私がこの3年間に真田町でやってきたことも紹介して、ヒントとしていただきました。
会場には、地元の新聞社の記者が来ていて、2時間最後まで私の話を熱心に聞いていたのが印象的でした。どうやら、私の話は新鮮だったようで、翌朝には、さっそく朝日新聞の群馬版に記事が載っていました。
かなり、具体的な内容で、どうやら記者さんも同じ考えを持っていたのかもしれませんね。

朝日新聞の群馬版の記事

越前そばに追いつけ、真田のそば畑の菜の花

10月は全国の道を歩き回っていました。その中で10月3日に「越前そば」で有名な福井市では住宅地に隣接する広大なソバ畑を発見しました。 ちょうど秋ソバの花が満開で、つい車を止めてしまいました。

「越前そば」で有名な福井市では秋ソバの花が満開

以前は水田だったと思われますが、普通なら減反で荒廃した畑が虫食いのように広がっているような場所ですが、それを思い切って寄せ集め、すべて統一したソバ畑にしている。
この潔さ! 計画性のある町作りに感心しました。これは「レピオかみなか」という地元の人たちが起こした組織が行っている事業で、「景観形成生活環境保全活動」という運動だそうです。

地元組織「レピオかみなか」が行っている「景観形成生活環境保全活動」

農林水産省の補助金も出ているようですが、住宅隣接地に総面積39へクターとはすごい! パンジーやサルビアといった外来の園芸植物ではなく、そばの花で「花に包まれた住みよいまちづくり」というキャッチフレーズ、どこかの誰かに聞かせたいものです。

信州真田のソバ畑での菜の花の種蒔き

さて、信州真田の私のソバ畑でも、来年の春に向けて10月11日に菜の花の種を蒔きました。今年の春に1200坪(0.4ヘクタール)の菜の花畑を作ったのですが、それでも、早春の色のない季節に黄色絨毯はきれいだったというお褒めの言葉を頂戴したので、来年の春は1500坪(0.5ヘクタール)の葉の花畑を目指します。今回もまた応援団が増えて、合計4人で蒔いたため、2時間で終わってしまいました。

種蒔きでは地元応援団の協力も

ただし、新人さんは心配なのか、丁寧に蒔きすぎていたので、来年はさぞや目の細かい絨毯ができることでしょう。 途中から、地元応援団の力石さんも差し入れを持ってきてくださり、畦や道沿いの草を刈ってくださるとのお申し出をいただきました。このプロジェクトも福井の39ヘクタールには遠く及びませんが、段々広がっていくといいなと考えています。

殿城赤坂の瀧水寺から眺める夕陽

夕方、応援団が東京に帰ったあと、余りにも天気がいいので、殿城赤坂の瀧水寺に夕陽を見に行きました。私が信州で一番美しい夕景と言っている夕陽です。

紅葉に感激の高遠新そばまつり

11月は信州の各所で新そば祭りが開催されています。私の庵のある上田市真田町でも11月1・2日にあり、上田市街地では7・8・9日に「信州そばフェスタ」という新しいイベントも行われ、毎週どこかでそば祭りです。今年は同じ信州でも南の伊那市高遠町の「高遠城址秋まつり新そばまつり」に参加しました。「内藤とうがらし」の高遠版を立ち上げた皆さんに頼まれて、「江戸の蕎麦と内藤七色唐辛子」のお話をするためです。

高遠城址の高遠閣の窓から見える紅葉

会場は、桜で有名な高遠城址にある高遠閣、昭和11年に建築された建物で、御殿づくりの立派なものです。生憎の雨でしたが、窓から見える紅葉の色が鮮やかで、とても美しいのです。聞いたところによると、高遠城址の桜はコヒガンザクラという品種で、葉が早くに落ちるため、楓が色ずく頃には、木が完全に裸になって、楓の紅葉の邪魔をしないからだそうです。なるほど、春の主役が秋の主役を引き立てているという訳ですね。

内藤とうがらしプロジェクト仕掛け人、田中健士さん

イベントは、高遠そばを食べながらの「ディナーショー」ならぬ「ランチショー」で、お客様には自由に食べながら聞いていただきました。急ぐお客様には、途中でご出発くださいと言いましたが、皆さん私の話が一区切り着くまで、立たれる方もなく熱心に聞いてくださいました。
私の話の後は、内藤とうがらしを使った江戸風「七色唐辛子」の実演です。東京四谷で内藤とうがらしプロジェクトを仕掛け、自らが江戸から続く売り口上を言いながら調合の実演を行っている田中健士さんの名調子です。中には、好みの辛さに調合してもらった七色とうがらしを早速そばにたっぷりかけているお客様もいて、楽しそうでした。

そばの手打ちの実演を披露する高遠そば組合の飯島組合長

都合4講演やりましたが、私や田中さんが話している間に、高遠そば組合の飯島組合長が、同時進行でそばの手打ちの実演を披露するなど、盛りだくさんの充実した会でした。

菜の花ちゃん。春までお休みなさい。

菜の花が発芽した真田の畑

ご報告が遅くなりましたが、10月11日に菜の花の種蒔きをした真田の畑も、11月下旬には無事発芽して、みどりの絨毯になっていました。
これから、霜や雪で、成長は止まり冬眠に入りますが、これだけしっかりと根付いた苗は、来年の春にはきっと見事な花を咲かせてくれることでしょう。
花の見頃は4月の後半から5月いっぱいです。
来年はいよいよ大河ドラマ『真田丸』の前年。気の早い方で、ブームより一足早く真田のいらした方は、ぜひ花見をしていってください。
菜の花畑の名所は信州各地にありますが、真田幸村がもしかして種を蒔いたかもしれない畑はここだけですから。
下の写真は「真田氏歴史館」「御屋敷公園」のすぐそばです。

「真田氏歴史館」「御屋敷公園」のすぐそばの畑

また、真田町民の方で、春の野菜不足解消のため、菜の花のおひたしを食べたい方は、咲く前の花芽を摘み取ってください。無農薬ですから安心して食べれます。花芽を取っても大丈夫!?という方、農業の素人ですね。菜の花は花芽を摘むと、分芽してさらに多くの花が咲くので、本当は私自ら全部摘みたいくらいです。
でも、残念ながら、12月10日から本業の時代劇の撮影に入り、来年菜の花が散る頃まで真田に戻る時間がありません。
また、このブログも、しばらく開店休業になりそうです。なるべく、頑張りますが、しばらくは『時代考証家山田順子の東奔西走』で、我慢してください。
というわけで、来年の春、ぜひ菜の花を見に来てください。

秋そばを刈り取った原の郷そば活性化組合の畑

お隣の原の郷そば活性化組合の畑は、秋そばを刈り取った後の切株がきれいの並んでいて、これも霜が降りると、なかなか風情のある風景になりますよ。

福原教授「真田には世界に誇れるものがある」

12月の半ば、例年よりも早い雪の中を、大阪芸術大学の福原成雄教授と助手の松川純也さんが上田に来てくださいました。

雪に囲まれる上田の景色

先生が上田に来られるのはこれで3回目で、1・2回目ともに、私が武田信玄の砥石城攻めの本陣を布いた場所と推定した辺りの石垣の調査に来てくださいました。
その成果は拙書『新説真田三代ミステリー』にもご紹介した通りで、貴重な石碑の発見にもつながりました。
3回目の今回は場所を移し、小牧の里の古民家の再生と、その環境づくりの調査に来てくださいました。
建物を直しても、周囲の景観がそれに伴わないと、折角の古民家再生も台無しです。
そこで、日本庭園の研究者であり、里山再生の実践をされている福原先生の御出馬を仰いだわけです。
張り切って、測量をしようと思っていたのですが、生憎というか、滅多にない雪景色に遭遇して、急遽、上田の雪景色見物となりました。

上田の雪景色見物

真田では、先生もソバの刈り取りをされたソバ畑で、春になると一面に菜の花が咲いている風景を想像し、赤坂の瀧ノ宮と男石神社では背後の岩壁が日本屈指の磐座と評価されている先生がなんとか世界に紹介したいと張り切っていらっしゃいました。

日本屈指の磐座と評価されている岩壁

さて、夏に再びお越しになるという先生がどんなマジックを見せてくださるか楽しみですね。

新たな信州プロジェクトがスタートです

お無沙汰をしています。
ドラマ『天皇の料理番』の撮影のため、半年以上も信州から離れていました。
そのため、昨年秋に種蒔きをした真田の菜の花畑の花を見ることができず、とても残念でした。

真田の菜の花畑

その状況を察した地元の仲間が写真を撮って送ってくれたのが、とてもうれしかったです。
まだ満開ではありませんが、咲いたらバックに写る砥石城に映えて、とてもいいでしょうね。
6月やっと真田に戻ってきて、ソバの種蒔きです。
菜の花が終わったあと、本当は早々に刈り倒しておきたかったのですが、そのままにしていたため、種が熟していました。そのため、ソバの種を蒔いたのに、橫から菜の花も芽を出して、ソバと競いあってしまいました。

競い合うように出て来たソバと菜の花の芽

おかげで、葉の大きな菜の花が勝ったようで、ソバの育ちが良くありません。さらに、外来種のオオブタクサをなんとか抑えようと、肥料を全く与えて来なかったのにも限界があるようで、かわいそうなくらいヒョロヒョロです。

昨年までキャベツの苗床だった新しい畑

今年新たに借りた新しい畑は、昨年までキャベツの苗床だったせいで、肥料が効いているのか、太く元気がいいです。ただし、キャベツ用の畑だったので、窒素分が多く茎と葉だけが立派で、その分花が小さく見えます。
今年でソバ畑も4年目です。ただ花を咲かせるだけですが、農業ってほんと難しいと思います。

さて、そんな愚痴を言っているにもかかわらず、また新たなことに首を突っ込んでいます。
同じ上田市ですが、今度は千曲川を渡った小牧という地区です。
ここで、3年前から、新たに桑を植えて、蚕を飼い、絹糸を紡ぎ、紬を織ろうというプロジェクトが始まっているのです。
信州上田産の紬は、江戸時代には「江戸三大紬」と言われて、結城紬、大島紬と並んでとても有名な産地でした。それが、現在はブランド名は残りながらも、糸は外国製で、織りだけ上田という有様です。
これに対して、養蚕からすべて上田で行うというNPO法人和楽学舎というグループが誕生したのです。
まあ、ここまでなら、「それは良かったね」で終わるところですが。
その作業場となる建物が明治初年に建てられた農家で、しかも周りが里山の景観をそのまま残しているという場所なのです。

里山の景観をそのまま残している作業場

この風景に一目ぼれをして、私は建物の再生と周りの環境整備の担当を引き受けてしまったのです。
そして今年の夏は、8月2日~6日、プロジェクトに参加してくれた大阪芸術大学の学生さんと合宿をしながら作業をしました。
その楽しかったこと!! 40年若返りました。

上田の景観整備プロジェクトの記事

その詳細は次回に。

秋蒔き用の種が届きました

現在、「真田戦国ロマンそばプロジエクト」の畑は2,000坪を超えました。
最初の1年目は秋ソバの収穫もしましたが、2年目からは一切収穫はせず、夏休みに向けた景観用に徹しています。もうすぐ、夏休みも終わるので、そろそろ次の展開に移る時期に来ています。
一昨年から、春の景観作りのために、菜の花を栽培しています。まだ、畑に緑が少ない時期に咲く一面の菜の花畑は圧巻だとご好評をいただいています。

レンゲの花の種

そして今年は、従来から希望していたレンゲの花にチャレンジすることにしました。一昨年、試しに蒔いてみたのですが、蒔いた時期が10月だったことと、湿地帯だったことで、全く芽も出ませんでした。
今年こそは8月中に種蒔きをする予定だったのですが、所用があり、9月初になりそうですが、なんとかチャレンジしてみるつもりで、種を注文しました。
レンゲは、菜の花より耕作条件がきついようなので、上手くいくかどうか心配ですが、まずは挑戦です。
特に今回新しく借りた棚田が春、ピンク色に染まると素敵だろうと想像しています。

「真田戦国ロマンそばプロジエクト」の畑

レンゲの種蒔きと上田市のオオブタクサ

信州では8月中に種蒔きをするように。と教えてもらい、早々と種を購入していたにもかかわらず、8月後半以来の雨続きで、ソバや雑草の刈り倒しができず、とうとう9月中旬になってしまいました。

8月後半以来の雨続きで草刈りが出来ず。

本来なら、一週間くらい天日にあててよく枯れたものを鋤きこみ、さらに二度くらいひっくり返したいところですが、

草刈りを終えた畑

そんな余裕もなく、青まま鋤きこみ、その上にレンゲの種を蒔くことにしました。
果たして、どんな結果がでるか。

お屋敷公園から中原に降りていく縦道沿いにある畑

そんな中、お屋敷公園から中原に降りていく縦道沿いにある畑ですが、私が一生懸命、草と戦い、レンゲの種を蒔いているのに、隣接する上田市が所有する土地は、雑草対策をしないため、オオブタクサの林が出来てしまいました。

四阿山や根子岳が見えるビューポイント

この場所は、上田市と私が制作した「真田三代に出逢うMAP」でも、四阿山や根子岳が見えるビューポイントに紹介されている場所です。
なのに、上田市のオオブタクサ林のおかげで、全く四阿山と根子岳が見えないのです。

オオブタクサ林に隠れる四阿山と根子岳

上田市のオオブタクサ林の裏に廻ると、ほら、右に四阿山、左に根子岳がちゃんと見えるのです。

右に四阿山、左に根子岳

よく見えるようにちょっと望遠レンズで撮ってみました。

信州の歴史的古道

ところで、このブログを始めるきっかけにもなった、信州の歴史的古道が、この有様です。
毎年、夏に私一人が草刈をしてきましたが、今年は真田滞在の日が雨続きだったため、草や雑木がどんどん繁殖しています。
しかし、不思議なのは、この道の入口に建つ建物が、建築資材置き場だった時代は草が少なかったのに、新しい住宅になったら、年々草の繁殖が激しくなってきたことです。
これってもしかして、以前は除草剤を撒いていたが、住宅になったので、撒くのを止めたということ???
ここも上田市の公道なんですがね。

今ふたたびの中仙道

お久しぶりです。
このブログはサボってばかりですみません。
姉妹ブログ「東奔西走」のタイトルどおり、日本全国を走り廻っているせいで、信州の道をのんびり歩いいる時間もなく、走って通り抜けるばかりです。

歌川広重の「木曽海道六拾九次」

歌川広重の「木曽海道六拾九次」
(広重は中仙道のことを木曽海道と書いてます。街道ではなく海道です)

そんな折、明日6日は、中仙道の荒井宿がある立科町で講演会をすることになり、久しぶりの信州の道歩きです。とは言っても、寒くて、根性がないので、車です。
まだ、雪は大丈夫そうですが、一応今日、スタットレスタイヤに履き替えました。
講演のテーマは、ふるさと再発見『歴史を生かした里づくり』です。

芦田宿の本陣

芦田宿の本陣(跡ではなく門の中に、建物があります)

ところで、立科町って、パソコン任せにすると「蓼科」って出てきてしまうんですよね。
町の南部、八ヶ岳高原に属する観光地は「蓼科」。町の北部、中仙道が通る芦田宿を含めた行政地名は「立科」。昔の人は、当て字をよくするので、同じ読みでもいろいろな漢字表記がありますが、同じ町内で2つの表記というのは、正直辛いですね。
ちなみに、このブログのタイトルになっている大谷画伯の絵は、明日講演をする芦田宿から隣の望月宿の間にあった正式の宿場ではないけれど、中間の小規模な宿場だった間の宿「茂田井」です。
画伯もいろいろ歩いた上で、この場所を描かれたのでしょうから、やはり、一番見栄えのする風景だったのでしょうね。
絵に描きたいような風景がいっぱいあるというのが、まず『歴史を生かした里づくり』の基本だということでしょうね。

笠取峠の松並木

笠取峠の松並木

春を待つ真田の郷

大河ドラマ「真田丸」が始まり、真田の郷には予想どおり大勢の観光客が来るようになりました。
しかし、観光客のお目当ては、「真田氏歴史館」と、菩提寺の「長谷寺」、産土神の「山家神社」ばかりで、郷の中は車で素通り。
まあ、まだまだ信州の春は寒いですからね。

信州真田の郷

3月の半ばの14日には、雪も降りました。一晩で一面の雪景色です。
私が秋に、菜の花やレンゲの種を蒔いて、やっと芽が出始めた畑にも、たっぷり雪が積りました。

雪積もる菜の花畑やレンゲ畑

ちょうどこの日、上田市に隣接する立科町に用事で出かけたのですが、本気の吹雪きでした。
でも、私はこんな日に立科に行けるなんて運がいいと大喜びです。
信州にいてもなかなかこんな日に立科町にある津金寺に行くことはできません。
そう!私が狙っていたのは雪景色の津金寺の写真だったからです。
大雪では、すべてが埋まって、なにも見えませんし、車の走行も心配です。
これは2年前の豪雪で経験済み。

今回は、自動車道は心配するほどの積雪はなく、しかし津金寺の境内には程よき積雪があり、かつ誰も歩いていないので、足跡無し。

津金寺の境内の雪景色 雪を被った五輪塔

雪を被った五輪塔の実に愛くるしい姿。
私が認定した「日本一の千塔五輪」です。

夕陽に染まる根子岳(左)と四阿山(右)

さすが春の雪、翌日にはすっかり溶けてしまいました。
今年また新しく私がお預かりした荒廃地からは、夕陽に染まる根子岳(左)と四阿山(右)が山間からくっきり見えていました。
これが本当の真田の郷の風景です。
4月の中旬には菜の花やレンゲが咲き始めるでしょう。ぜひ、見に寄ってください。
場所は御屋敷公園のすぐそばです。
菜の花は、自由に積んでください。蕾のうちは、茹でると美味しいですよ。

美味しい菜の花摘みと、頑張れレンゲ草

二週間前は雪景色だった真田の郷にも、春は確実にやってきました。
本原の真田氏御屋敷跡の表門前の道を中原(上州街道)方面にゆっくり坂を下り、リンゴ畑を過ぎると左右が開けた畑地になります。
この道は、今年の正月にNHK「家族に乾杯」で、笑福亭鶴瓶さんが通った道で、坂下に「真田塗装」、坂上に「大松リンゴ園」があります。
真田昌幸や幸村がこの郷に居た頃は、ここが小さいながらも真田の城下町の「縦道」と呼ばれたメインストリートでした。
さて、ここに広がる菜の花畑とレンゲ草の畑はすべて私が作りあげた風景です。
ただし、ただ見るだけでなく、食べられる風景でもあるんです。

菜の花畑とレンゲ草の畑

ちょうど、4月上旬から中旬は、菜の花はまだ咲きませんが、その花の芽を食べると、とても美味しい時期です。今年は雨が少ないため、丈が伸びず20センチくらいですが、ちゃんと花芽を付けています。
そこで、鎌を片手に籠いっぱい摘み取りました。
その後、黄色になった葉や、固そうな葉を切り落とし、中心部の花芽に近い部分だけを集めてみました。
これを茹でて、お浸しにすると、春の香りがしてとても美味しくいただけます。
スーパーで売っている葉の花より、歯ごたえがありますが、とても濃い味がします。

花芽に近い中心部

取っても取っても、花芽が分化するので、菜の花は増えるばかりです。
このブログを読んだ方には、お礼に差し上げますから、ぜひ私の畑においでください。
ただし、摘み取り作業はご自身でお願いしますね。
すでに、ひと籠で、私は腰痛になってしまいました。

「尾降山」の登り口にある畑

武田信玄が砥石城攻めのときに本陣を置いた「尾降山」(郷の人は「おこう山」と読みます)の登り口にある畑にはまだオオイヌノフグリが威張っていますが、4月下旬にはレンゲ草の花もきっと頑張ってくれると思います。
真田記念公園から真田氏歴史館に車で行く道の道沿い右側ですから、すぐ分かります。
春を存分に楽しんでください。

【後日談】
レンゲ草は、残念ながら一輪も咲きませんでした。
豆科の苗が育っていたので、てっきりレンゲだと思っていたら、花が咲いてみれば、どうやら「クサフジ」という植物で、山地の日当たりの良い場所に咲くらしいのです。
外来種ではありませんが、今年は真田の郷の各地で多く見かけましたので、急激に広がったようです。
やはり、レンゲ草は真田の郷では、無理なようですね。