真田三代旅歩紀_top画像

山田順子_LINE

はじめに

この連載は、2012年『週刊漫画サンデー』(実業之日本社)に「戦国武将真田三代旅歩紀」を連載したとき、「付録」としてサイト上に連載したものの、ダイジェスト版です。
なぜ、「付録」なのかというと、雑誌の連載はモノクロ写真で、しかも毎回1枚だけの掲載だったため、美しい信州の風景をカラー写真でご紹介したいと思ったからです。もちろん、カメラマンは私ですから、写真の出来不出来はカメラ任せです。それでも素材が良いといい写真になります。
連載中は、信州に行った気分になると、励ましの声を頂戴しました。これからご覧になる皆様にも、ぜひ楽しい旅をしていただければ幸いです。


 

山田順子_LINE

【第1回】「真田氏発祥の郷」の碑

「真田氏発祥の郷」の碑

 ふらっと、やって来た上田市真田町で、最初に私を迎えてくれたのが、この石碑です。 真田三代をテーマにした小説『真田太平記』の著者・池波正太郎が揮毫した堂々たる碑で、真田町の入口、下原の真田氏記念公園に建っています。
 池波先生は『鬼平犯科帳』で江戸を見事に描き出していますが、戦国ものもなかなかのものです。

 

【第2回】「義烈の将 真田幸村公」のレリーフ

「義烈の将 真田幸村公」のレリーフ

 真田氏記念公園といっても、真田では家一軒分の広さなので、「公園と言っていいのかどうか?疑問ですが、とにかく町の入口にあります。
 ここには幸隆、幸昌、幸村の三人のレリーフが建っていますが、歴女が憧れる幸村さまがただのオジサン顔なので、きっとがっかりでしょうね。

【第3回】北アルプスを染める夕景

北アルプスを染める夕景

 私の大好きなひと時。遠くに北アルプスの稜線が夕日に染まって、まるで影絵のようにくっきり見えます。
手前の右側が、武田信玄が攻めても落ちなかった砥石城・米山城の尾根です。
この城が真田家の運命を切り開き、私の大発見のヒントにもなりました。

 

【第4回】真田氏発祥の地、唯一の観光マップ

真田氏発祥の地、唯一の観光マップ

 私が初めて真田の郷を訪れたとき、大河ドラマに「真田三代」を採用してもらおうと、署名運動が盛んで、人口16万人の上田市がどうやって集めたのか、66万人を超える署名を集めてNHKに提出したそうです。
 しかし、実際にその中心舞台となるはずの、真田氏発祥の地に来てみれば、唯一の観光案内板がこれでした。しかも観光案内所でもらえる印刷物もこれと同じものだけ。ああ、志高けれど・・・・。

 

【第5回】真田氏の本拠といわれる「真田本城」

真田氏の本拠といわれる「真田本城」

 真田の郷には、夏になれば、全国から「歴女」と呼ばれる女性たちがやってきます。しかし、手にしているのは東京で出版されたガイドブックだけ。真田の地図なんて、上田市の端に小さく略図で載っているだけで、何の役にも立ちません。しかも、実際に真田に来てみれば、前回のような案内マップしかなく、しかも案内標識もなく、観光案内所がどこにあるかも分からない状態でした。
 「元祖歴女」と呼ばれる私としては、せっかく来てくれる現役の歴女の皆さんに申し訳ないと、義憤に駆られ、市役所に乗り込んだのが、この物語の発端でした。

 

【第6回】江戸中期から幕末までのお墓が仲良く並んでいる

江戸中期から幕末までのお墓が仲良く並んでいる

 一見のどかな里山の風景ですが、写真のすぐ右側には県道が走り、住宅が迫っているため、こんないいショットが撮影できる場所は、なかなか有りません。やっと見つけたベストショットです。
  真田の郷、私が部屋を借りた本原地区には、確認されただけでも古墳が30基以上あったそうです。また住居跡もあり、古代から栄えていた地域だったことが分かります。しかし、現在はその形を残すものは2基だけで、あとは圃場整備や住宅建設で、ろくな調査もされないまま、姿を消しました。

【第7回】永禄二年と刻まれた石の祠?

永禄二年と刻まれた石の祠?

 墓以外にも、郷のいたる所に石の造形物があります。ひとつは道祖神や馬頭観音など道や旅に関係するもの。もうひとつが、家の氏神様を祀る祠です。中には建立した年月日が刻まれているものがありますが、「元禄」「寛政」「文化」「天保」など江戸時代の年号が中心です。
 その中で、「永禄」という戦国時代の年号を見つけたのです。「永禄二年」は西暦1559年ですから453年前で、真田三代の初代・幸隆の時代です。しかも、市の文化財課も土地を所有している地元の方もこの存在を知らないらしいのです。 えっ!これって、世紀の大発見!?!?

 

【第8回】真田氏歴史館の目玉展示は!?

真田氏歴史館の目玉展示は!?

 上田市と合併する前の真田町時代に建てられた「真田氏歴史館」。現在も真田氏関係の唯一の専門施設です。年間3万人以上の入場者があり、近年の戦国ブームのおかげで、年々増加しているそうです。
 だたし、この施設は博物館でも資料館でもないため、専任の学芸委員もおらず、展示品は開場した20年前から、ず~と同じで、目玉の真田三代が着用したという甲冑は、25年前に放送されたNHKドラマ『真田太平記』で使われた小道具の甲冑を購入したものです。展示品の横に小さく説明されているのが、かえって痛々しい感じがします。
 大河ドラマを誘致できたら、新しい観光施設として、リニューアルしてくれるんですかね。

【第9回】落ち葉の下から、石畳みの道!?

落ち葉の下から、石畳みの道!?

 「永禄二年」の石の祠が発見された近くに、小石を並べた道らしきものを発見! 私の里山歩きのルートで、歩くごとに足の裏に固いものがあるので、落ち葉を掃いてみたら、一筋の道が出てきました。中央が盛り上がっており、あきらかに水はけを考えた人工の道です。でも、なぜ、こんな山の中に???
 またまた、大発見か! 真田には手付かずの遺跡がまだまだ眠っているようです。

 

【第10回】大事件! 石畳の道が危ない!

大事件! 石畳の道が危ない!

 落ち葉の下から現れた石畳とおぼしき道の隣接地で、樹木の伐採が始まったのです。近年薪ストーブがブームとなり、別荘の住人がこぞって薪ストーブを導入するため、薪の値段が高騰して、いい商売になるそうです。
 しかも、この伐採はある大事件の前触れでもあったのです。その事件とは、住宅建設です。
(※この道に関しては、『歩いて守ろう信州の道』にその後の顛末が続いています)

 

【第11回】江戸時代の道しるべ

江戸時代の道しるべ

 真田町本原の中原公民館前にある道しるべで、ちょうど大笹道(上州街道)と松代道(松代街道)が交差する地点にあり、「左松代道 右大さゝ道」と刻まれています。現代でもこの地点は町内の主要道路の交差する所です。
 この他にも、上州街道や松代街道沿いの道には、数多くの道しるべが残されており、江戸時代にはかなりの交通量があったことが分かります。

 

【第12回】瀧水寺の観音堂

水寺の観音堂

 真田の郷に隣接する上田市殿城赤坂にある真言宗の寺院。創建は正応3年(1290)と伝えられていますが、はっきりしているのは天正15年(1587)に真田幸隆の弟といわれている矢澤綱頼によって再建され、以後「瀧水寺」と改称されたこと。寺の背後にせまる岩壁に懸崖造りのお堂があり、十一面観世音が祭られています。このお堂からみる夕日は真田(上田)で一番美しいと、私は思っています。(第3回の夕景です)

 

【第13回】古い歴史の出早雄神社

古い歴史の出早雄神社

 真田の郷には、歴史の古い神社が2つあります。その一つ、本原にある出早雄神社(いずはやおじんじゃ)です。はっきりとした史料に出てくるのは平安時代前期の貞観二年(860)で、朝廷から「従五位下」という官位をもらっています。ということは、この時にはすでに信濃国を代表する歴史のある神社だった訳ですから、その創立は、古墳時代まで遡るかも。
 しかし、残念なことに、秋の大祭当日だというのに、鳥居前に幟は掲げられましたが、参拝客は見当たりません。「昔は縁日も出て、近在の人が大勢来たよ」とは氏子総代の我が家の大家さんの言葉です。

 

【第14回】北国街道の海野宿(うんのじゅく)

北国街道の海野宿(うんのじゅく)

 上田市の隣、東御市にある宿場町で、江戸時代の宿場の家並みがほどよく保存されています。道がアスファルト舗装じゃなければ、いいのに!
 真田氏が先祖だと主張する海野氏はこの海野という地名から名乗った苗字です。海無し県の長野にはこの他にも「海」の字の付く地名がかなりあります。小海、海ノ口、海尻、大学時代に勉強した記憶だと、湖が多くあり、それを海と称したので多いとか。

【第15回】「州浜」の寺紋が輝く伊勢山の陽泰寺

州浜」の寺紋が輝く伊勢山の陽泰寺

 真田氏の家紋は皆さんよくご存じの「六文銭」ですが、それ以外にも「州浜」と「結び雁金」という紋も使用していました。特に「州浜」は真田氏が祖先だと主張する海野氏の家紋です。そのため、現在も海野氏が創建した寺の寺紋として使われることが多く、真田町に隣接する上田市伊勢山の陽泰寺も「州浜」を本堂の屋根に掲げています。

 

【第16回】昔、ここに鳥居が建っていました

昔、ここに鳥居が建っていました

 真田の郷を南北に縦断する国道144号線を12キロくらい北上すると、菅平高原に至ります。その手前を西に行けば須坂、東に行けば信州と上州の国境、鳥居峠です。
 峠からは標高2354mの四阿山(あずまやさん)山頂に登る登山道があります。四阿山は真田氏が代々信仰してきたといわれる山家神社の奥宮があり社殿の扉には幸隆の名前が書き残されています。ここを抑えたことが、幸隆の出世物語の初めですから、さぞや大切にしたことでしょう。
 そして、この峠は古代から日本海と関東を結ぶ要路として、真田に繁栄をもたらしたのです。

【第17回】なぞの石垣を調査

なぞの石垣を調査

 まだ雪の残る3月中旬、大阪芸術大学環境デザイン学科教授の福原成雄先生が真田の石垣調査に来てくださいました。
 先生は日本庭園の研究者で、世界から招聘されて日本庭園を設計施工される国際派の方です。また、庭石のみならず、近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)が積んだ石垣の研究と復元を通して、石垣にも造詣の深い研究者です。

【第18回】矢穴の痕が残る石

矢穴の痕が残る石

 私が福原先生にお見せしたこの写真がきっかけで、先生は興味を持たれてわざわざ来てくださいました。
 中央に二つある三角形の石、底辺をよく見てください。まるで下駄の歯のような凹凸があるのが分かりますか。これは大きな石を割るときに、矢の先のように尖がった鉄の鏨(たがね)を細かく打ち付けて穴(矢穴)を開け、そこにさらに太い鏨を入れて押し割った痕です。写真上部の石には割り口側の半円形の矢穴の痕が見えています。

【第19回】砥石城から烏帽子岳方向の眺め

砥石城から烏帽子岳方向の眺め

 福原先生のたっての希望で、村上義清軍が籠城した砥石城に登りました。陽泰寺側の大手口から登り始めて45分。登山道には雪が残り、膝まで埋まりながらの雪中行軍となりました。これだから、信州の合戦は冬場やらないんだ!
 ひと口に砥石城といいますが、尾根続きに枡形城、本城、砥石城、米山城と呼び分けています。城址からは武田信玄がこの城を攻めたときに陣をおいたと推定される「屋降」実は「尾降」も見えています。

 

【第20回】砥石城から北アルプスを望む

大事件! 石畳の道が危ない!

 砥石城の山頂から西には、手前に尾根続きの米山城、その向こうに筑摩山地、そして遠くに北アルプスの槍ケ岳、穂高岳などが見えます。雲やガスでなかなか見ることはできませんが、福原先生と登ったこの日は雪が降った後の快晴で、 一年のうちで数日という最高のロケションでした。

【第21回】上田城の石垣調査

「上田城の石垣調査

 大阪芸術大学教授の福原成雄先生は、真田の山城推定地の石垣との関係を調べるために、上田城の石垣も調査されました。同じような矢穴があったので、助手の方が巻尺で一つ一つサイズを測定し、先生が細かくスケッチされた図に書き込んでいくという実に丹念な作業です。

 

【第22回】信玄が砥石城攻めのために兵を集めた備場

信玄が砥石城攻めのために兵を集めた備場

砥石城の内小屋(見張り小屋)からは、神川(かんがわ)の流れがよく見えます。ちょうど真下に見える広い川原が、武田信玄が渡河のため兵を待機させた「備場」といわれる場所です。
神川は暴れ川なので川原の位置が変わっている可能性はありますが、この付近には明治初期まで木製の橋が架かっていた跡もあるので、やはり川を渡るならこのあたりでしょう。

【第23回】武田軍の櫓城の跡

武田軍の櫓城の跡

 民家の庭先にある櫓城の石垣だと伝承されるものです。下部は布積みといわれる横に平行に積む古い積み方ですが、上部は落積みという江戸中期以降に見られる石垣なので、いつの時代かに上部だけ積み直された可能性が高いようです。しかし、下部の石は大きく、たぶん掘ればこれもかなり立派な根石が出てきそうです。

 

【第24回】石棺の中から刀が発見された畑

石棺の中から刀が発見された畑

 この付近で、江戸時代に大石の蓋の下から刀40腰短刀18腰が発見されたという史料もあるのですが、詳しい地図や発見されたときの記録がないので、これ以上のことは分かりません。
 ここからは私の推理ですが、砥石崩れで信玄が敗北して退却したとき、多数の戦死者を出したといいますから、地元の農民が死体から刀を拾い集め、一ヶ所に隠しておいたのではないでしょうか。真田には古墳が多く点在し、この場所にも古墳があったようなので、石棺の中にでも隠しておいたと思うのですが、いかがでしょう。

【第25回】国道から見た急斜面の本城

国道から見た急斜面の本城

 上田市街地から菅平高原入口を経て群馬県の嬬恋に抜ける国道144号線を走っていると、派手なイラストに「この道は幸村街道です」書かれた看板が迎えてくれます。郷の有志の人たちが制作したそうですが、なぜか観光案内所には設置してもらえず、酒屋さんの看板の隣になってしまいました。
 ちょうどこの辺りから右手に「本城」と呼ばれる山城が見えます。樹木の葉が落ちている冬場はその稜線がよく見え、小さな山頂に右側から本郭、二の郭、三の郭が連なっているのがよく分かります。

 

【第26回】天白城方面から見た本城

天白城方面から見た本城

 国道から反対方向にある支城の「天白城」の麓から見た本城です。緩やかな傾斜地の先にこれも緩やかな尾根が横たわってまるで丘のようです。手前に堀跡もないので、扇状地側からの攻撃は全く想定されていないようです。しかし、扇状地には館そしてその先には村上軍がいた砥石城があったのですから、なんのための山城か疑問が残ります。

【第27回】館跡の土塁

館跡の土塁

 現在は「御屋敷公園」と呼ばれる真田氏の館跡の土塁を南側から見ています。手前の道路が空堀だったという説もありますが、その形跡は全くありません。
隣接するマレットゴルフ場と館の境界が分かり難く、ほとんどの観光客はマレットゴルフ場も館跡だと思っている様子です。他に土地がたくさんあるのに、なんで一緒にしたんですかね。

 

【第28回】館の南郭跡

館の南郭跡

 館跡は平成2~3年に一部発掘調査をしたそうですが、出土品も少なく、生活道具がほとんど出てこなかったため、ほんとうに館として使用したのか、疑問視する声もあります。
 内部は公園として整備するときに、山ツツジを植えたため、現在はまるで雑木林のような景観となり、内側からは土塁の形状を判別することが難しくなっています。史跡と花の名所、一石二鳥を狙ったのでしょうが、これでは本末転倒と言われてもしかたありません。

【第29回】長谷寺の山門

落ち葉の下から、石畳みの道!?

  真田の長谷寺は「ちょうこくじ」と読みます。長谷寺といえば、奈良県の長谷寺。鎌倉の長谷寺が有名なのでつい「はせでら」と読んでしまいそうです。
 本堂などの建物は、戦火、土石流、火事また火事の連続で、史料も含め古いものは全く残っていないそうです。史跡としては幸隆・昌幸の墓(慰霊塔)以外は見るべきものがないと言ってもいいでしょう。
 ただ、この桃の形のような石の山門がユニークなので、ここをガイドする人たちは「真田氏は馬を飼育していたので、馬蹄形の山門にした」と言うのです。しかし、江戸時代には馬に馬蹄を履かす習慣はありません。また私の友人の建築家は「昭和の初め頃、インド様式が寺院建築に流行ったので、その影響では?」 石の専門家は、「表面の削り出しは、近代のものですね。」さて、本当はどれでしょうか。
 ここの湧き水は水の美味しい真田の郷で、一番美味しいそうです。たしかに美味しかったです。また参道に豆腐工場があります。この豆腐が絶品なのもこの水のおかげでしょうか。

 

【第30回】信綱寺の黒門

大事件! 石畳の道が危ない!

 真田三代と言いながら、ほとんど忘れられているのが、初代幸隆の長男で幸隆死後家督を継いだ信綱(のぶつな)です。本来は二代目になる人物なのですが、治世1年で戦死してしまい、三男の昌幸が当主になったため、どうしても陰が薄いのです。
 しかし、二代目になった昌幸は兄のために、兄が建立したこの寺の名前を「打越寺」から「信綱寺」(しんこうじ)に改称して、ここに墓を立てました。
写真の山門は、遠くから見ると黒に見えるので「黒門」と呼ばれる信綱寺の山門です。真田氏がこの地を治める前にいた横尾氏の城跡とも伝わる地で、この周辺も探せば何か出てきそうな予感がします。

 

【第31回】石祠?実は宝篋印塔

石祠?実は宝篋印塔 石祠?実は宝篋印塔 石祠?実は宝篋印塔

 この連載の第7回に発見した永禄二年の年号のある石の祠を本格調査してみました。 もちろん、管理者の許可をいただいての作業です。当初から宝篋印塔の塔身の部分ではないかという指摘もあり、屋根を取って細部を調べてみました。(上の写真)正面中央に「地」、右側に「永禄二年」、左側に「八月廿四日」と刻まれていました。
 その後、長野市の善光寺に参拝に行きましたら、本堂裏手に松代に移転後の真田家の宝篋印塔が数基あり、その中にバラバラに崩れてはいましたが、〈中・下の写真)のように「水」「地」と刻まれたものがありました。
 五輪塔の「空・風・火・水・地」輪と同じように、宝篋印塔にも刻んだ時代があったのでしょか。ちなみに、下の写真には右側に「元和九年」(1623)、左側に「寛永十六年」(1639)と江戸時代初めの二つの年号が刻まれていました。

 

【第32回】山本勘助伝説のある瀧ノ宮の池

山本勘助伝説のある瀧ノ宮の池

 瀧ノ宮の創建年代は不明ですが、最初は「木霊(こだま)神社」といい、中世になって諏訪社となりましたが、宮の背後に巨石の壁面が高くそびえて、その間から湧き水が豊富に流れ落ちて瀧になっていたので、別名「瀧ノ宮」と呼ばれ、現在はこれが通称になっています。
 現在は背後の尾根に変電所が出来たため、湧き水が減り瀧は見ることができませんが、神社の境内に池があります。伝説によると、武田信玄の砥石城攻めのとき、片目の軍師で有名な山本勘助がこの水で目を洗ったので、池の鯉が片目になったといわれています。

【第33回】屋降、本当は尾降

屋降、本当は尾降

 ずばり殿城の瀧ノ宮・瀧水寺の裏山一帯が、武田信玄の砥石城攻めの本陣(陣城)跡ではないかと推定している場所です。殿城山から降ってくる尾根の先端部に当たります。
 砥石城攻めの唯一信頼できる史料だといわれる『高白斎記』に書かれた「屋降」が、誤字または写し間違いで「尾降」だとしたら、まさにここが「尾降」地です。

 

【第34回】小玉原から上田市街地を望む

小玉原から上田市街地を望む

 真田の郷には、馬の放牧地だったと思われる場所がいくつかありますが、ここ「小玉原」は現在リンゴ畑と樹木畑となっているため、地形にあまり手が入っておらず、昔ここが馬の放牧地だったことが想像できます。
また私が推定している武田信玄の陣城があった尾根の上部にもあたりますので、武田騎馬隊の馬を待機させておく牧場にも使われたことでしょう。
写真の草地の淵には矢竹の密集地があります。矢竹のある所に山城跡が多いといわれるように、真田の郷でも山城の付近や中腹に多くあり、籠城になった時でも簡単に調達できるようになっています。
 ここからは、上田市街地が一望でき、今はビルに隠れて見えませんが、幸村の時代には上田城築城の様子も見えたことでしょう。

【第35回】上田城 南櫓の石垣

上田城 南櫓の石垣

 上田市の中央部にある上田城跡。築城当時は千曲川に面する尼ケ淵という場所だったため別名「尼ケ淵城」とも呼ばれました。この地は非常に固い地層なため、真田昌幸が築城した当時は石垣をほとんど積まず、地肌がそのままむき出しだったと推定されています。江戸時代になり千曲川による侵食を防ぐために写真の下部に見える腰巻状の石垣を積み補強しました。
 写真中央の台形に見える石垣は平成に入って、崖の崩落防止のために新たに積まれた石垣ですが、わざと他と区別するためか、従来の石垣には使われていない川原の丸石を積み、しかも形も!!!なので、やたらに目立ちます。これじゃ、ドラマなどで上田城の遠景を撮るときに使えず、なんてことをしてくれた!と怒りすら覚えます。
 現在、上田市は江戸時代にあった7つの隅櫓を復元しようと募金活動をしていますが、その前にやることはたくさんあるような気がします。

 

【第36回】真田幸村騎馬像

真田幸村騎馬像

 JR上田駅前のロータリーにある幸村公の騎馬像。かっこいい写真になるはずなのに、なんだか広告看板の中に幸村公が埋もれています。しかも原色の派手な看板ばかり。もちろん看板を出す方は、観光客が幸村像を撮ったとき、バックとして入ることを狙っています。
 これでは、NHKはもちろん民放の旅番組でも困ります。看板の規制が難しいのは分かりますが、大河ドラマの誘致運動をする前に、こんなところも気を抜かず、がんばって欲しいものです。

【第37回】祝出版! 新説真田三代ミステリー

祝出版! 新設真田三代ミステリー

 『真田三代旅歩紀』に最後まで、お付き合いいただき、ありがとうございました。
でも、これだけじゃ、よく分からなかったとご不満の方、ごもっともです。そこで、ぜひお勧めしたいのが、『新説!真田三代ミステリー』です。
 これまで、英雄伝説としてむやむやにされてきた真田幸村、その父昌幸、祖父幸隆の足跡を真田氏発祥の地、上田市真田町で丹念に掘り起こした成果をまとめた本です。まるで、ミステリ小説を読み進むかのような展開に、わくわくしながら読めること請け合いです。